イギリス領マラヤ
英領マラヤ(マレー)
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「南方占領地切手」の記事における「英領マラヤ(マレー)」の解説
シンガポールを含むマレーの各州では「マライ」、ボルネオ島では「北ボルネオ」の国名表記がなされた正刷切手が発行された。いずれも日本語表記による切手であった。普通切手のモチーフの中には「昭南」と改称したシンガポールにあった「昭南神社」や「昭南忠霊塔」など、日本による皇民化政策の一環で設置された施設も描かれた。 ゴム採集切手(1943年10月) 錫採集切手(1943年4月)
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英領マラヤ (18世紀から20世紀中頃まで)
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「マレーシアとベトナムの関係」の記事における「英領マラヤ (18世紀から20世紀中頃まで)」の解説
ペナン島が18世紀末にイギリスの港湾拠点として整備されてから間もなく、ベトナムのジャンク船がフエにいたベトナムの皇帝の指示により、貿易のためこの港町を訪れ始めた。1790年代後半という早い時期の記録には、阮朝初代皇帝の嘉隆帝の商船がサトウキビを積んでインドに向かう途中、ペナン島に入港したことが記されている。初期の安南からの訪問者は、商人を含んでいた。兵士たちは、ペナンのことを漢越語で檳榔嶼 (Tân Lang dữ) と呼んでいた。1810年の王族の物語では、ベトナムの人びとはペナンを「ペナン島」という意味のCù lao Cauと呼ぶようになった。ベトナムのカトリック教徒は、1840年代から神学を学ぶためペナンにわたった。この中には、著名な著述家であるチュオン・ヴィン・キー (張永記, 英語:Pétrus Ky) が含まれていた。トレンガヌ王国の東部に対しては、ホア族がコーチシナより家禽やコメの貿易のため船で訪れてきた。ホア族の一部はこの地に定住し、現地華人と同化していった。 チャム族ムスリムの指導者であるカティップ・スマ (Katip Suma) はクランタンで教育を受け、明命帝によるチャンパ併合後のベトナムに対するジハードを行うべく帰国した。 ホー・チ・ミンは、1920年代後半から1930年代前半にかけて南洋共産党、後のマラヤ共産党の結党にあたって鍵となる役割をはたすとともに、1930年4月にジョホールのブロー・カサプ(英語版)で行われたマラヤ共産党結成記念式典への出席を含め、いくつかの機会をとらえて英領マラヤを何度か訪問している。マラヤ共産党に対するホー・チ・ミンの影響は、ベトナム出身のライ・テック(英語版)の入党と、その後の彼の1934年と1938年の書記長就任という形で現れていた。マラヤ共産党とベトナム共産党の協力と交流は、1940年代後半におけるライ・テックの失脚後、活発化した。マラヤ共産党はこの時期、短期間ながらベトミン に対する閃光弾の輸送を促進した。第二次世界大戦期においては、ベトミンとマラヤ人民抗日軍 (MPAJA) は、マラヤと仏領インドシナへの進駐に抵抗した。マラヤとベトナムの共産党幹部間の密接な結びつきは、その後、1954年のディエンビエンフーの戦いによる共産党の勝利によって築かれた。ベトミンは、マラヤ共産党に対して小規模な物資やコミュニケーションの支援、および訓練を1950年代から1960年代にかけて行った。
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