英領ケープ植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:44 UTC 版)
1795年、フランス革命の余波を受けイギリス艦隊がケープタウンに上陸し、ケープはイギリスの占領下に置かれた。1803年にはアミアンの和約によってオランダ連邦共和国の後継国家であるバタヴィア共和国がケープ植民地の支配権を取り戻したが、1806年1月には再びイギリス軍がケープを占領し、1815年のウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となった。 イギリス領となっても、ケープ植民地の首都及び中心がケープタウンにおかれたことに変わりはなかった。1820年にはイギリス人の移民が始まったものの、ケープタウンにおいてもケープ植民地全体においても、イギリス系はオランダ系ボーア人の人口を越えることはなかった。1833年の奴隷解放によって東ケープのトレックボーアたちは不満を募らせ、やがてグレート・トレックを引き起こすが、ケープタウンはすでに商工業を中心とした社会となっており、グレート・トレックへの参加者はほとんどいなかった。 グレート・トレックによって内陸部にオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国が成立すると、イギリス本国はケープ植民地の政治的自立性をある程度認める政策をとるようになり、1854年にはケープタウンにケープ植民地議会が開設された。この議会は制限選挙制であったが人種制限はなく、これによって一部の黒人及びカラードは1956年まで選挙権を保持することに成功した。植民地政府は同時に経済開発を進め、ケープタウンに電信や郵便が整備され、ステレンボッシュやケープ半島南部への鉄道も開通した。1865年には、ケープタウンの人口は28000人に達していた。 1886年、トランスヴァールのヨハネスブルグで金が発見されると、ケープタウンは当初は鉄道によってヨハネスブルグからの金の輸出を独占していたものの、やがてヨハネスブルグにはナタール州のダーバンからの鉄道が到達し、さらにトランスヴァール政府がポルトガル領ロレンソ・マルケス(現マプト)へのデラゴア湾鉄道を建設したことから輸送ルートが変化した。この輸送ルート問題は、やがてボーア戦争の引き金の一つとなった。
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