英領インド勤務
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「イヴリン・ベアリング (初代クローマー伯爵)」の記事における「英領インド勤務」の解説
1872年から1876年にかけては英領インドに派遣され、親族のインド総督第2代ノースブルック男爵トマス・ベアリング(従兄弟甥にあたるがノースブルック卿の方が年長者。また本家筋に当たる)の私設秘書を務めた。 ベアリングはインドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから"overbearing"(横暴の意)と渾名されていた。
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英領インド勤務
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「ウィンストン・チャーチル」の記事における「英領インド勤務」の解説
イギリスに帰国したチャーチルは、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望し、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起したクレタ島、ジェームソン侵入事件(英語版)が発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった。 1896年冬に第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルはイギリス領インド帝国に転勤となった。インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていたが、チャーチルもそのような生活を送った。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが、困窮していたチャーチルはインド人金融業者から借金している。 インドは平穏だったのでチャーチルは、アリストテレスの『政治学』、プラトンの『共和国』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、マルサスの『人口論』、ダーウィンの『種の起源』、マコーリーの『イングランド史(英語版)』など多くの読書をした。 インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生したパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たため、やがて帰隊させられた。 この時の体験談を処女作『マラカンド野戦軍物語』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『サヴロラ(英語版)』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった。
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