ジェームソン侵入事件
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「ジェームソン侵入事件」の解説
南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国は、第二次ディズレーリ内閣の時の1877年4月にイギリスに併合されたが、第二次グラッドストン内閣の時の1880年に第一次ボーア戦争に勝利して再独立していた。 1886年にトランスヴァールのウィットウォーターズランドで金鉱が発掘され、ヨハネスブルグの町が建設されてトランスヴァール共和国は潤い始めた。イギリスやイギリス・ケープ植民地などからも続々と金やダイヤモンド採掘のための移民が集まってきた。しかしこの移民たちはトランスヴァール政府が自分たちに重税を課し、選挙権も認めず、ケープ植民地からの輸入も禁止していることに不満を高めていった。イギリス・ケープ植民地の首相でイギリス南アフリカ会社の社長であるセシル・ローズとその首席補佐官レアンダー・スター・ジェームソン(英語版)は、この移民たちの不満を煽って、トランスヴァールを再併合する機会を狙っていた。 1895年12月から翌1896年1月にかけてヨハネスブルクの在留イギリス人の内乱準備と連携してジェームソン率いる500名ほどの南アフリカ会社所属の騎馬警察隊が突然トランスヴァール共和国へ侵入を開始したが、計画があまりに杜撰すぎて早々にボーア人民兵隊に包囲されて降伏した。ヨハネスブルクの在留イギリス人たちの反乱もまもなく鎮圧された(ジェームソン侵入事件(英語版))。 植民相ジョゼフ・チェンバレンも首相ソールズベリー侯爵も計画は知っていたが、静観を決め込んでいた。事件が失敗に終わるとイギリス本国政府は公式にはこのジェームソンの行動を批判することで関与を否定し、トランスヴァール軍から釈放されたジェームソンを反逆罪で裁判にかけ、また査問委員会を設置してローズを弾劾し、彼を公職から追放した。 チェンバレンの関与も疑われたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに宛てて祝電を送ったことが判明し、世論や自由党の批判もそちらへ流れていった結果、チェンバレンは失脚を免れた。
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