ローズベリー伯爵派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)
「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ローズベリー伯爵派として」の解説
ローズベリー伯爵内閣総辞職後、1905年まで保守党と自由統一党の合同政党の統一党の政権が続き、アスキスら自由党は野党として過ごした。自由党は引き続きローズベリー伯爵が党首、ハーコートが自由党庶民院院内総務を務めていた。 1895年末から1896年初頭にかけて南アフリカ・トランスヴァール共和国でセシル・ローズの部下たちが侵入するも失敗して捕虜になるというジェームソン侵入事件(英語版)が発生した。この事件以降統一党政権は植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンのもと、トランスヴァールへの野心を本格化させ、反トランスヴァール世論を煽るようになった。こうした情勢の中で自由党内は党首ローズベリー伯爵やアスキスら「自由帝国主義派」とキャンベル=バナマンやハーコートら「小英国主義派」の内紛が深まっていった。 1896年10月にはローズベリー伯爵が自由党党首職から退いた。この際の辞任演説の中でローズベリー伯爵は「私の目に狂いがなければ、情理を備えたアスキス氏が将来国家を指導する地位につくことになろう」と予言した。 後任の自由党党首はアスキスかキャンベル・バナマンのどちらかだろうという下馬評だったが、アスキスの方が16歳若年であったし、また金持ちのキャンベル=バナマンと違い、アスキスはいまだ弁護士をして生計を立てなければならない身だったため、アスキス自ら辞退し、キャンベル=バナマンが自由党党首を引き受けることになった。
※この「ローズベリー伯爵派として」の解説は、「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の解説の一部です。
「ローズベリー伯爵派として」を含む「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事については、「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の概要を参照ください。
- ローズベリー伯爵派としてのページへのリンク