ローズベリー伯爵内閣内務大臣
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「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ローズベリー伯爵内閣内務大臣」の解説
1894年3月にグラッドストンが引退し、ヴィクトリア女王の独断の叡慮によりローズベリー伯爵が後任として大命降下を受けた。 ローズベリー伯爵の内閣でもアスキスは引き続き内務大臣に留任した。またこの頃、死別した妻に代わって資産家サー・チャールズ・テナント准男爵(英語版)の娘マーゴット・テナント(英語版)と再婚した。彼女は大変な才女で社交界の花であり、自由党のみならず保守党の政治家たちからも評判が良かった。 ローズベリー伯爵内閣は首相・貴族院院内総務であるローズベリー伯爵と大蔵大臣・庶民院院内総務であるウィリアム・バーノン・ハーコートの内紛が激しい内閣だった。アスキスはローズベリー伯爵派だったが、なるべくこの対立に巻き込まれないようにしようと内務大臣の職務に集中した。 1895年にはウェールズ教会を国教会から解放する法案に取り組んだが、野党保守党からの反発は根強く、デビッド・ロイド・ジョージらウェールズ出身の自由党議員も法案の不十分さを指摘して反対した。 アスキスがその説得にあたっている間、戦争大臣ヘンリー・キャンベル=バナマンは陸軍予算に関する法案に敗れ、陸軍大臣職を辞職した。首相ローズベリー伯爵はこれを機に総辞職することを決定した。ここで辞職しなくてもその後アスキスが取り組んでいるウェールズ教会問題で敗北を喫する可能性が高かったのでその前に早々に総辞職した形だった。 アスキスはウェールズ教会法案敗北に直面するのを回避できてこの総辞職に内心安堵していたという。一方でロイド・ジョージらウェールズ出身者に不満を持つようにもなったという。
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