ジェームソン侵入事件をめぐって
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「ジェームソン侵入事件をめぐって」の解説
1895年12月29日から翌年1月2日にかけてジェームソン侵入事件(英語版)が発生した。これはイギリス・ケープ植民地首相、また勅許会社イギリス南アフリカ会社社長であるセシル・ローズの首席補佐官レアンダー・スター・ジェームソン(英語版)がトランスヴァール共和国支配を狙って500名の南アフリカ会社所属の騎馬警察官を率いて同国へ侵入するも、翌年1月2日までには全員トランスヴァール官憲に投降した事件である。この事件が起こった背景にはドイツ帝国政府とドイツ資本がトランスヴァールに接近を図っていたことへのローズの焦燥があった。 この事件にチェンバレンが関与しているのでは、という噂は事件直後からあった。チェンバレンが計画の存在を知っており、それどころか決行を促進する指示さえ出した可能性は濃厚だったが、庶民院に設置されたジェームソン侵入事件に関する査問委員会(チェンバレンも委員の一人)は、ローズを弾劾して公職から罷免しつつ、チェンバレンや本国植民地省については関与なしとの判断を下した。査問委員会でこういう結論が出されたのはチェンバレンが事前に南アフリカ会社の勅許状取り上げをちらつかせてローズを脅迫し、彼に査問委員会で「植民地大臣は何も知らなかった」と証言させたことが大きかった。また植民地大臣と植民地省高級官僚の無罪を証明するため数人の下級官僚をスケープゴートにした工作も功を奏した。 さらにチェンバレンはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がトランスヴァール大統領ポール・クリューガーに祝電を送ったことを利用してイギリス国民の怒りをそちらへ向けさせて、自らの保身を図り、そればかりか民衆の世論を反トランスヴァールに誘導するのに成功したのだった。 チェンバレンは1897年5月よりケープ植民地高等弁務官に着任したアルフレッド・ミルナーを通じてトランスヴァールに対する強硬外交を行うようになった。ただし首相ソールズベリー侯爵がマフディーの反乱以来独立状態にあるスーダンの再征服を1898年に計画していたため、チェンバレンもそれが終わるまでは事を荒立てすぎないようにとミルナーを抑制した。
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