トランスヴァール大統領
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「ポール・クリューガー」の記事における「トランスヴァール大統領」の解説
1883年の大統領選挙にはクリューガーとジュベールが立候補し、クリューガー3431票、ジュベール1171票でクリューガーが選挙に勝利。クリューガーはトランスヴァール大統領に就任し、以後4期連続当選を果たし、1900年までトランスヴァールの大統領を務めた。政治家としては保守的であり、あまり洗練されてはいないが飾らない態度と、トランスヴァールの独立を力強く訴える政治姿勢が地方の保守的ボーア人から強く支持された。 1886年、国土中央にあるヨハネスブルクにおいて金鉱が発見されたことで、トランスヴァールは転機を迎えた。財政は急速に好転し、第1次ボーア戦争の原因ともなった財政逼迫は改善されたが、ゴールドラッシュとともに大量に流入したイギリス系の移民(外国人=アイットランダース)の増大によってボーア人は白人の中でも少数者に転落する危惧を抱いた。クリューガーはアイットランダースの勢力を削ぐため、選挙権をトランスヴァールに14年以上居住した白人のみに与えるように選挙法を改正したが、これがイギリス系の不満を招き、ケープ植民地首相セシル・ローズらによって政府転覆とトランスヴァール併合の計画が再び練られるようになる。 また、ローズはベチュアナランドやローデシアを英国領に編入し、トランスヴァールに圧力をかけた。それに対抗するため、クリューガーはデラゴア湾鉄道の建設を行い、ヨハネスブルクからポルトガル領モザンビークの港町ロレンソ・マルケス(現マプト)へのルートを自国の手に握った。さらに1895年にはスワジランド(現:エスワティニ)を併合し東に勢力を伸ばした。また、ドイツと接近しイギリスと対抗した。 1895年、ジェームソン襲撃事件が起き、クリューガーはイギリスを激しく非難。さらに事件の翌日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世より事件解決の祝電が送られる。クリューガー電報事件である。この両事件によりローズは失脚したものの、イギリスとトランスヴァールとの対立は決定的となった。この際、ケープ植民地からヤン・スマッツがプレトリアに移住し、彼の才能を高く買ったクリューガーはスマッツを司法長官に任命した。
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