事件解決
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幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフヴォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。この幕府の事件解決方針は、まさに嘉兵衛の予想と合致するものだった。 1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。 ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送った。二人はシーモノフとアレクセイを連れて国後島に向かい、6月19日に到着。しかしながらリコルドが日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を捕らえた当人であったという理由から幕府が採用するところとならず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。 日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発。一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。 リコルドはオホーツクに入港すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手。そして、若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳のキセリョフ善六と歓喜丸漂流民の久蔵を乗せて、7月28日にオホーツクを出港した。20日後には蝦夷地を肉眼で確認できる位置まで南下し、8月28日に内浦湾に接近した。しかし暴風雨に遭遇、リコルドは一旦ハワイ諸島に避難することも検討したが、暴風雨がおさまったため、9月11日に絵鞆(現在の室蘭市)に入港した。そこで水先案内のため待機していた嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、9月16日夜に箱館に到着した。入港直後には嘉兵衛が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。 9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した。 9月19日正午、リコルドと士官2人、水兵10人、善六が上陸、沖の口番所で高橋重賢らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した。なお、この会談で善六はリコルドの最初の挨拶を翻訳したが、以後の通訳は日本側の通訳・村上貞助が行った。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、9月26日にゴローニンらを解放し久蔵を引き取ったが、通商開始については拒絶した。 任務を終えたディアナ号は9月29日に箱館を出港し、10月23日にペトロパブロフスクに帰着した。
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事件解決
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「奈良小1女児殺害事件」の記事における「事件解決」の解説
一方で奈良県警捜査本部(奈良西署)は被害者女児の携帯電話から発信された複数回のメール・電話などの記録を解析し、すべて河合町周辺の基地局経由で発信されていることを把握して同町周辺を重点捜査していた。また「犯人は奈良県西部の土地勘のある人物」として聞き込み捜査などを行った結果、「犯行に使用された乗用車は加害者が借りていた緑色のトヨタ・カローラIIである」「加害者は犯行当日、週1回の休日(水曜日)で事件当時のアリバイがない点」「小林が飲食店で被害者女児の写った携帯電話の画像を客らに見せるなどしていた点」などが判明した。 そのため12月30日朝、捜査本部は被疑者小林を西和警察署に任意同行して 事情聴取したほか、小林宅を家宅捜索したところ被害者女児のランドセル・携帯電話などを発見し、同日中に小林を誘拐容疑で逮捕した。取り調べに対し、被疑者小林は殺害・死体遺棄などについて容疑を認め、Aの母親へAの遺体の写真を送信した理由について「結果を知らせてやりたかった」と供述した。 小林は2005年(平成17年)1月19日には殺人・死体遺棄の容疑で再逮捕されたほか、奈良地方検察庁により同日付でわいせつ目的誘拐の罪により起訴された。その後は2月8日に死体損壊・脅迫容疑で追送検され、翌日(2月9日)には殺人・強制わいせつ致死・死体遺棄・死体損壊・脅迫の各罪状で奈良地方裁判所へ起訴された。 小林の自宅からは幼児ポルノのビデオ80 - 100本や雑誌、盗んだものと見られる女児の下着や衣類が約80枚、およびスクール水着に女性用の下着や女の子の服などを詰めて作った、頭や手足がない胴体だけの人形のようなもの が押収されており、小林は小児性愛者であったとされる。なおこの胴体だけの人形の様なものは、事件発生から3日後に小林が作った。 小林が児童への性犯罪の前科を有していたため、影山任佐(東京工業大学教授・犯罪精神医学)はそのような前科犯への矯正教育・治療の必要性に加え、「治療・矯正が困難な場合は、出所後も被害者となりうる女児から隔離するなどの対策を取ることも必要」と指摘した。また、大谷昭宏は事件後、小林が逮捕されるまで「犯人はフィギュアおたく(フィギュア萌え族)ではないか?」とする説を唱えていたが、小林はフィギュアを所持していたとされる報道はなかった。 なお被害者・女児Aは生前、大阪近鉄バファローズのファンだった。これを受け、当時近鉄に所属していた中村紀洋は自身のサイン入り野球道具(バット・グラブ・ユニホームなど)をAの遺族に贈り、それらは女子児童の通夜で霊前に供えられた。
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