事件結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 01:35 UTC 版)
花蓮港の守備隊は近代化した軍隊組織を構築した上、募集されたアミ族青年と共に作戦を展開した。だがタロコ族の頑強なる抵抗を受けて撤退、結局、1897年(明治30年)5月13日をもって作戦終了を迫られた。花蓮港守備隊は多大な物資と人員を投入しつつも目的を達成しえず、タロコ族の勇猛な性質、そしてタロコ地区における李阿隆の影響力と謀略を痛感した。当局は花蓮地区を統治するに当たり、方針の転換を迫られることになる。 当局はタロコ族の勇猛な性質と巧みな戦闘能力を体験すると同時に、彼らがタイヤル族南澳蕃と敵対関係にあることを知る。ここに、台湾原住民同士の利害、敵対関係を利用して彼らを統制する「以蕃制蕃」(蕃を以て蕃を制す)を発案、タロコ族を利用してタイヤル族南澳群を平定する作戦が立ち上げられた。1903年(明治36年)11月11日、台東庁長・相良長綱は自ら花蓮に至り、台湾総督府より派遣された警視賀来倉太と合流、頭目に率いられタイヤル族南澳蕃へ出征する。 同年12月1日、一団は一路1000人あまりの軍勢をもって山地への侵攻を開始した。戸数200あまりの集落を制圧して焼き払い,さらに大きな集落で2日間にわたる戦闘を繰り広げた末、その集落も焼き払って凱旋した。また200人の別動隊は南澳蕃の別の集落を襲撃して13日に勝利し、タロコ族は敵の首級を挙げて凱旋した。時の台東庁庁長・相良長綱は彼らの働きをねぎらい、「以蕃制蕃」の戦いを終わらせた。
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