事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/28 07:53 UTC 版)
1942年(昭和17年)、日本陸軍の第59師団歩兵第53旅団の独立歩兵第42大隊は、臨清市を中心に東臨道北部に駐屯し、うち第5中隊を館陶県に配置していた。12月下旬当時、大隊主力は「と号作戦」と称する第12軍各部隊による掃討作戦に参加中で、大隊長の五十嵐直彦大佐も出陣して不在だった。 第5中隊に対して、隊員のうち10人を大隊本部へ転属させるよう命令が出された。第5中隊長は、まずはK兵長ら6人に対し転属を命じた。K兵長らは、大隊本部への転属命令を、危険の大きな太平洋方面への転属の前段階と予想して不満に感じた。ある兵士の目撃証言によると、12月26日夜にK兵長らは中隊長室の前で、転属対象から外してほしいと泣いて懇願していたという。 12月27日、第5中隊長ら幹部は、K兵長ら転属予定者6人を送るために壮行会を開いた。しかし、K兵長らは、酒の用意が少なかったことを不満として壮行会を退席してしまった。うちM上等兵ら4人は兵舎で飲酒後、規則を無視して町の食堂へと夜間外出しようとし、制止しようとした週番下士官や説得を試みたA准尉らを殴打。中隊長も胸倉を掴まれるなどした。K兵長ら2人も別に外出した。ほとんどは深夜になって帰営したが、M上等兵は食堂に無断外泊した。 翌28日、K兵長ら3人が再度無断外出し、M上等兵と合流して町の食堂で酒盛りを始めた。大隊本部への出発予定時刻になっても帰営せず、中隊長の帰還命令も無視した。昼ごろになって、転属予定者のうちH上等兵は泥酔状態で中隊の本部へ乱入、A准尉を殴打した。竹刀で制圧しようとする下士官もあったが、なおも説得にこだわる中隊長が許さなかった。調子に乗ったH上等兵は銃剣を抜いて暴れだし、M上等兵も加勢して、中隊長ら幹部を追いかけ始めた。M上等兵は衛兵所にも侵入して窓ガラスを割るなど設備を破壊、備えつけの小銃を手にして発砲、手榴弾も投げた。その後、M上等兵とH上等兵、K一等兵は、小銃を乱射しながら駐屯地内外を徘徊したが、中隊長以下の幹部や衛兵司令らは実力行使を行わずに逃げ隠れしてしまった。その他の兵たちも危難を恐れて駐屯地外へ全員が逃げ出した。M上等兵らは町の食堂へ繰り出して夕方まで飲酒を続けた後、ようやく帰営。同僚兵士と記念撮影のあと、17時30分頃に転属先の大隊本部へ出発した。 駐屯地を脱出した中隊長らは、近在の警察署の電話を借りて大隊本部へと事態を通報、K兵長ら転属者が出発した後の23時頃に駐屯地へと戻った。大隊本部は、到着したK兵長ら転属者を営倉入りさせるとともに、警備要員を館陶へ増派した。 急ぎ帰還した大隊長や憲兵による捜査が始まり、翌1943年(昭和18年)1月6日には第12軍司令部から軍参謀や法務部長らも現地へ派遣された。1月7日、館陶駐屯部隊は第5中隊から大隊予備隊に交代となり、翌8日、第5中隊長は責任をとって自殺した。第12軍軍法会議で裁判が開かれ、用兵器党与上官暴行や抗命罪などでM上等兵とH上等兵は死刑、K一等兵は無期懲役、K兵長ら残りの転属予定者3人が有期懲役・禁錮となったほか、衛兵や幹部の一部も守地や勤務場所を放棄したとして辱職罪の有罪判決(禁錮刑)を受けた。大熊貞雄歩兵第53旅団長と五十嵐直彦独歩第42大隊長は30日の謹慎処分を受けたうえ、土橋一次第12軍司令官および柳川悌第59師団長とともに予備役編入となった。事件当時に館陶駐屯だった兵士全員も、適切な対応を怠ったとして重営倉1週間の懲罰処分相当とされたが、実際には軍人勅諭と戦陣訓の筆写をもって代わりの処分とされた。その後、第5中隊は改組された。
※この「事件経過」の解説は、「館陶事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「館陶事件」の記事については、「館陶事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:49 UTC 版)
ここに及んで斉彬派は江戸家老・島津壱岐や二階堂主計といった改革派に加え、藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は島津久宝・久徳・伊集院平・吉利仲といった斉興側近の家老で固め、調所が築いた安定を堅守しようと鋭く対立した。嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立はまさに一触即発の状態となり、特に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。その機先を制するかのように同年12月3日(1850年1月15日)、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された(即切腹となったため謀議の真偽については不明)。同罪状でその他3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。この禍は薩摩本国の国元のみならず江戸屋敷まで及び、嘉永3年4月26日(1850年6月6日)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられた(下命の2日後の28日(8日)に切腹)。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。 この時西郷吉之助(隆永、のちの隆盛)は、父・吉兵衛から吉兵衛が御用人をしており介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願うようになる。また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免のうえ、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職、謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷が援けたという。
※この「事件経過」の解説は、「お由羅騒動」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「お由羅騒動」の記事については、「お由羅騒動」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 03:09 UTC 版)
ソ連対日参戦翌日の1945年(昭和20年)8月10日朝、東安駅では最後の避難列車が出発準備中だった。停車中の避難列車3本のうち2本までは無事に発車した。最終列車は、満鉄駅員の回想によれば前後に機関車を連結した30両近い長大な編成で、駅中央の6番線に停車していた。最終列車には黒咀子開拓団の避難民880人などが乗車していた。 駅員は最終列車発車前に1番線脇の駅舎や倉庫に火を放った。最終列車以外が発車した後に着火したという証言があるが、1番線で待機中の列車に乗っていたが駅舎や倉庫の火災が熱いため6番線の列車に移ったとする証言もある。 給水塔や鉄橋の破壊作業をしていた兵士の乗車に時間がかかったが、ようやく駅員も含め全員が6番線の最終列車に乗車して発車サインが出された。しかし、編成が長過ぎて列車はなかなか動きださず、5-6分も構内に停滞するうち、13番線脇に雨除けシートをかけて野積みされていた日本軍の弾薬が爆発した。爆発前、数人の日本兵が弾薬の山に放火したのが目撃されている(詳細は#爆発の原因参照)。取材した駅員の回想によるとして、激しい爆風を受けて、爆発地点に最も近い中間部分の無蓋貨車3両が横転したとされる。これに対し、機関車と前から何両かが吹き飛んだとする乗客当事者の証言もある。いずれにせよ、多数の乗客が吹き飛ばされて死傷した(死者数は#犠牲者参照)。 横転車両の部分から列車は切断され、うち前方部分はそのまま発車した。後方部分も横転車両を除いて再編され、約2時間後に生存乗客や残留駅員を乗せて発車した。しかし、前方部分は東海駅、後方部分も西東安駅でソ連軍機の空襲を受けていずれも放棄され、すぐに徒歩での避難に切り替わった。前方部分に乗車していたグループは、牡丹江市へ歩く途中、8月11日にソ連戦車の攻撃を受けて四散し、死者・行方不明者など40人を出した。これに対して、機関車が吹き飛んだとする証言では、昼ごろ、あらためて来た別の機関車に、残りの避難列車がつながれ、動き出したとする。
※この「事件経過」の解説は、「東安駅爆破事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「東安駅爆破事件」の記事については、「東安駅爆破事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:30 UTC 版)
奥西は1926年(大正15年)1月14日、事件の舞台となった名張市葛尾地区で生まれる。 奥西は1940年(昭和15年)に高等小学校を卒業後、参宮急行電鉄に入社した。奥西は地元では「長身の美男子」として評判で、のちに事件で死亡した奥西の妻も近鉄名張駅で働いており、奥西夫妻は一部親族の反対を受けつつも懸命に説得して結婚し、1男1女の子供に恵まれた。 1961年3月28日、三重県名張市葛尾の薦原地区公民館葛尾分館(現存しない)で、地区の農村生活改善クラブ(現「生活研究グループ」)「三奈の会」の総会が行われ、男性12人と女性20人が出席した。この席で男性には清酒、女性にはぶどう酒が出されたが、ぶどう酒を飲んだ女性17人が急性中毒の症状を訴え、5人が亡くなった。 捜査当局は、清酒を出された男性とぶどう酒を飲まなかった女性3人に中毒症状が見られなかったことから、女性が飲んだぶどう酒に原因があるとして調査した結果、ぶどう酒に農薬が混入されていることが判明した。 その後、重要参考人として「三奈の会」会員の男性3人を聴取する。3人のうち、1人の妻と愛人がともに被害者だったことから、捜査当局は、「三角関係を一気に解消しようとした」ことが犯行の動機とみて、奥西を追及。4月2日の時点では自身の妻の犯行説を主張していたが、4月3日には農薬混入を自白したとして、三重県警察に逮捕された。逮捕直前、奥西は名張警察署で記者会見に応じた。しかし、逮捕後の取り調べ中から犯行否認に転じる。
※この「事件経過」の解説は、「名張毒ぶどう酒事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「名張毒ぶどう酒事件」の記事については、「名張毒ぶどう酒事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 18:15 UTC 版)
2003年当時、鹿児島県議会曽於郡選挙区は定数3で、自民党公認の現職3名が無投票で再選される見通しとなっていた。ところが、志布志町議会議員であった中山信一が無所属で出馬したことにより、一転して4名による激しい選挙戦が繰り広げられ、中山は3位で当選(後に自民党会派へ参加)。自民党現職の市ヶ谷誠が次点となり落選した。
※この「事件経過」の解説は、「志布志事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「志布志事件」の記事については、「志布志事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 10:22 UTC 版)
午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長・宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官・深沢巳吉大尉を殺害した。 一方の東京鎮台予備砲隊は、岡本少佐が突如内山少尉の提案を退け静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した。 砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第1、第2連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。 この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。 正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。 一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた。 同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められた。裁判長は黒川通軌、評事山川浩中佐、権評事・伏谷惇および阪元純煕少佐、参座国司順正中佐、西寛二郎少佐、鑑岡信綱少佐、大島久直少佐がつとめ、10月15日に判決が下された。騒乱に加わった者のうち、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。
※この「事件経過」の解説は、「竹橋事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「竹橋事件」の記事については、「竹橋事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 18:05 UTC 版)
「鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件」の記事における「事件経過」の解説
1999年7月 - 鹿児島国際大学経済学部「人事管理論および労使関係論」担当教員(教授または助教授)公募。 2000年2月22日 - 経済学部教授会は候補者の採用を賛成多数で決定。 3月13日 - 学長は、関係者の事情聴取を行うこともなく教授会の結論を否定し、当該候補者に不採用通知を送付。 3月24日 - 臨時教授会。学部長が「採用人事をめぐる学長所見」を報告し、理事長のもとに「大学問題調査委員会」を設けたいとする学長の意向が紹介された。 8月4日 - 調査委員会による事情聴取(1回目)。 11月25日 - 調査委員会による事情聴取(2回目)。 2001年10月~11月 - 「懲戒理由書」が4名の教員の自宅あてに送付。 11月 - 弁明聴聞。 2002年3月29日 - 学校法人津曲学園理事会、処分決定(3名は「懲戒退職」、1名は「減給6ヶ月」)。
※この「事件経過」の解説は、「鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件」の記事については、「鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 18:52 UTC 版)
「テンプスタッフ登録女性派遣労働者容姿ランク付名簿流出事件」の記事における「事件経過」の解説
1998年1月1日 - 24日に、容姿ランク付きリストとして神奈川県の個人がインターネット上に開設した会員制ウェブサイトで販売される。テンプ社のシステム関係を担当した外注業者社員が、テンプ社から持ち出した顧客リストを、データベース作成のテストデータとして、自分のノートパソコンの記憶装置へ複写して持ち出し、サイトの入会金10000円と引き換えで販売した。テンプ社はサイトを閉鎖をさせ、リストを購入した数10人に返金の申し出と名簿の回収を求める電子メールを送った。 1月28日に、労働省の記者クラブで篠原欣子社長が記者会見し、「すみません、すみません、すみません」と泣きながらひたすら頭を下げた。テンプ社のサイトに謝罪と経過説明を掲載し、リストに載った9万人の登録者全員へ謝罪文を郵送した。 3月24日に、リストを販売するサイトが新たに発見されて対応し、以後の3次流出はないと主張している。 6月に、被害にあった派遣労働者のうち6人が、計600万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴し、2000年に和解する。
※この「事件経過」の解説は、「テンプスタッフ登録女性派遣労働者容姿ランク付名簿流出事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「テンプスタッフ登録女性派遣労働者容姿ランク付名簿流出事件」の記事については、「テンプスタッフ登録女性派遣労働者容姿ランク付名簿流出事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:36 UTC 版)
「天変邸抄(中国語版)」では次のように記されている:「天啓丙寅五月初六日巳時、天の色は皎潔となり、いきなり吼えるような爆音がし、北東部から北京城南西隅に至るまで、灰が吹き出し、家屋が揺れた。しばらくの間、大地震がきて、空は崩れて、夜のように暗くなり、万の部屋が平らに沈んだ。東は順城門大街(現在の宣武門内大街)、北は刑部街(現在の西長安街)まで至り、西は平則門(現在の阜成門)南まで及び、長さ3,4里、周囲13里を粉塵が覆った。死体が積み重なり、大気は汚れ天は燻り、瓦礫は空に満ちて振り注ぎ、街道の門戸はなくなった」。 爆発によって一瞬のうちに京城内の人畜、樹木、煉瓦石は突然吹き飛び、どこかへ飛び去った。爆発の威力は非常に大きく、「密雲から遠く離れた大木」でさえ裂け飛び、石駙馬大街(現在の新文化街)にある約3トンの巨大な獅子の石像が、順成門(現在の宣武門)外に投げ出された。その後、「雨のように木、石、人が空から降り始めた。数千の建物と数百人の人々だった」。爆発の中で「理由は分からないが、負傷した男女の体は皆服がはだけており」、かつ死者も「皆裸だった」。 当時の皇帝天啓帝は乾清宮で朝食をとっていた。突然、地震が起き、建物が揺れ、立ち上がり乾清宮から急いで出て、交泰殿まで走った。急いだため「お付きの内侍は追いつけず、ただ一人の内侍がそばについていた」が、途中「建造中の極殿檻の鴛瓦が落ちてきて」、その内侍の頭部に瓦が直撃し、その場で死亡した。紫禁城の本殿を修繕中の工匠は、「地震により2,000人以上が屋根から落下し、全て肉の袋となった(死亡した)」。皇妃の任皇貴妃の宮中の器物は落下し粉々になり、まだおしめをつけていた皇太子の朱慈炅はその日にショック死した。 爆発音は、南は河西務、東は通州、北は密雲と昌平にまで至り、北京から150キロメートル以上離れた遵化、宣化、大同、山西省広霊県、天津でも、激しい振動が感じられた。爆発後に北京入りした者の報告では、西安門付近に金属の残骸が落下していた、人々の衣類が西山あるいは北東郊外に漂い、木々のてっぺんに引っかかっていた、昌平の州学校には、衣類、銀貨、首飾り、器や皿が飛び散っていた、とある。王恭廠爆発の威力は莫大であるが、地震の振動は巨大であり、火薬庫から遠く離れた場所での地震が引き起こした理由を説明することはできていない。さらに爆心地は「木材が燃えておらず、燃えた痕跡もなかった」。 爆心地には、上級役人の薛風翔、房壮麗、呉中偉がいたが座轎(駕籠)は地震で壊れ、負傷者が多数出た。工部尚書の董可威は両腕を骨折した。御史の何廷樞と潘雲翼は自宅で被災し死亡した。両家の老人と子供は「土中に埋まって」死んだ。宣府の楊総兵の7人は馬とともに姿を消した。承恩寺街を進んでいた轎子は、通りの中心で破損し、女性乗客と人夫が行方不明となった。また、「粤西会館」の玄関口にいた教師と学生、合わせて36人は、巨大な振動と音の後、行方不明となった。不思議な話としては、北京に来てわずか2日だった紹興市出身の周姓の役人の弟が菜市口で6人と会った時、お辞儀の拝揖がまだ終わらないうちに、周の頭が突然に吹き飛び、体が地面に倒れた。他の6人は無事だったという。 爆発の際、多くの樹木が根こそぎに遠くに吹き飛び、豚、馬、牛、羊、鶏、鴨、犬、ガチョウ、さらにはバラバラになった頭や手足さえも雲中まで打ち上げられ、空から落下した。この屍の雨は2時間以上続いたと言われている。丸太、石塊、人の頭や千切れた手足、さまざまな家畜の死体が天から降り注いだ。特に徳勝門の外に落下した人の手足が多かった。 爆発後、「京城の中には被害者はいなかった。建物はすべて破壊されており、秩序がなくなった。挙国が狂ったようになり、象房が壊れ象が逃げた。爆発時に発生した雲は、乱れた糸のようだったという者もあれば、5色に光っていたという者もあり、また黒色の霊芝のようだったという者もいた。天を衝くように発生し、時間とともに散った」。また、「2万人以上の住民が死に至る負傷をし、腕の切断、骨折、頭部外傷者が多数いて、遺体も至るところにあり、悪臭も酷かった」。
※この「事件経過」の解説は、「王恭廠大爆発」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「王恭廠大爆発」の記事については、「王恭廠大爆発」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:46 UTC 版)
「神戸長田区小1女児殺害事件」の記事における「事件経過」の解説
2014年9月11日 - 女児が行方不明になり、母が長田署に捜索願。 9月12日 - 兵庫県警が公開捜査。女児の持ち物と思われるリュックサックの写真も併せて公開。 9月16日 - 女児の後ろを歩く容疑者が防犯カメラに映っていたことから、容疑者の男K宅を捜査員が訪問し、任意でK宅を調べる。 9月23日 - 夕方、捜索していた捜査員が女児の遺体の腐乱臭に気付き、雑木林に放置してあったビニール袋から腐敗が進んだ女児の遺体の肉片とたばこの吸い殻とK名義の診察券を発見。 9月24日 - 兵庫県警捜査本部設置。酒に酔い雑木林の方へ向かう遺体遺棄現場から30メートルに住む容疑者を捜査員が発見し、任意同行をもとめ、前日発見されたビニール袋に中にあった吸い殻とDNAが一致したため逮捕。 9月26日 - 警察の家宅捜査で女児のリュックサックが容疑者宅から発見。 10月14日 - Kを殺人容疑で再逮捕。 10月21日 - Kが殺害を自供。 10月31日 - Kの鑑定留置が行われ、その後神戸地方検察庁は刑事責任能力ありとした。 2015年1月30日 - 神戸地検は殺人、わいせつ目的誘拐などの罪で起訴。 2016年3月7日 - 神戸地方裁判所で初公判。 3月18日 - 裁判員裁判で死刑判決。弁護側が大阪高裁に控訴。 2017年3月10日 - 大阪高裁で一審を破棄し無期懲役の判決。検察側は判決を不服として最高裁に上告。 2019年7月3日 - 最高裁で検察側の上告を棄却。
※この「事件経過」の解説は、「神戸長田区小1女児殺害事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「神戸長田区小1女児殺害事件」の記事については、「神戸長田区小1女児殺害事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:19 UTC 版)
1936年1月29日、ソ連との国境に近い満州国密山県の金廠溝に駐屯する満州国軍国境監視隊で、組織的な脱走が発生した。士官に率いられた満州国軍兵ら108人が、日本人幹部(日系軍官)3人を殺害し、兵舎に火を放ってソ連領へと向かった。 翌1月30日、反乱事件を知った日本陸軍第3師団の一部と満州国軍の部隊が出動して追跡にあたったところ、日本側の記録によれば金廠溝南方の875高地付近(満州国領)で、突如として射撃を受けた。日満軍も応射して戦闘となり、日本側の戦死9人と戦傷7人など双方に相当の死傷者が出た。日本側はソ連兵の死体1体を回収したことなどから、ソ連のゲーペーウー部隊が脱走兵とともに射撃を行ったものと判断した。 一旦は戦闘が収まったものの、2月1日にも、前線視察に向かった日本軍の歩兵第68連隊第3大隊長一行とソ連兵7-8名との間で銃撃戦が発生した。日本側は満州国軍500人などを増派して警戒を強めたが、それ以上の戦闘は起こらなかった。 2月下旬に日本の外務省が現地の特務機関関係者から事情聴取した結果によれば、最初に戦闘が起きた地点はソ連領内に150mほど入った地点であった。これは、現地の日満軍部隊が所持していた地図が不正確であったため、誤って越境したものだった。
※この「事件経過」の解説は、「金廠溝事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「金廠溝事件」の記事については、「金廠溝事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:44 UTC 版)
「ファン・イムホフ号事件」の記事における「事件経過」の解説
1942年1月、「ファン・イムホフ」は、スマトラ島シボルガから、イギリス領セイロン島のコロンボへと出航した。乗船者は、オランダ人乗員48人とオランダ軍警備兵62人、ドイツ人抑留者478人の計588人だった。同船には救命ボートが300人分ほどしかなかったため、船長は軍当局に対して問題があると警告を行ったが、速やかに出航するよう命じられた。また、オランダ当局は、仮に遭難した場合にはドイツ人は救助しないことも指示していた。 1月19日夕刻、シボルガ西方110海里付近の洋上で、「ファン・イムホフ」は日本軍機の攻撃を受けた。日本機は爆弾5発を投下し、機銃掃射を行った。うち爆弾1発が命中し、航行不能となった「ファン・イムホフ」はゆっくりと沈み始めた。オランダ人乗員と兵士は救命ボート6隻のうち5隻を降ろし、ドイツ人抑留者を後に残したまま全員が船を脱出した。あと1隻の救命ボートは、うまく降ろすことができなかったのであきらめられた。 ドイツ人たちは、オランダ人たちが退船した後に自力で脱出を試みた。2時間後に船が沈没するまでに、なんとか海面に降ろすことができた救命ボート1隻と作業用の小型ボート1隻、筏6隻で計201人が船を離れた。ほかの277人は溺死した。筏のうち4隻も、翌朝までには沈んでしまった。 「ファン・イムホフ」の遭難を知ったオランダ当局は、救助隊を派遣した。ただし、オランダ海軍は、ドイツ人は見殺しにするよう救助隊に指示した。ドイツ人が救助船に乗ろうとしたときには武力によって阻止すべしという秘密命令も出されていた。翌1月20日午前には、オランダ海軍のカタリナ飛行艇が漂流者を発見し、オランダ船「ベロンガン(インドネシア語版)(Boelongan)」が救助に駆け付けた。しかし、「ベロンガン」は、漂流者がドイツ人であることに気付くと救助作業を止め、一人も収容せずに引き返した。 その後、ドイツ人遭難者のうち筏に乗った者はすべて行方不明となり、ボートに乗った者だけが1月23日にニアス島へと漂着した。生存者は66人で、再びオランダ植民地政府によって拘束された。
※この「事件経過」の解説は、「ファン・イムホフ号事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「ファン・イムホフ号事件」の記事については、「ファン・イムホフ号事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 10:04 UTC 版)
2000年7月22日17時10分頃、嘉義県番路郷の八掌渓呉鳳橋において、経済部水利署第五河川局の派遣した作業員が河床工事の作業をしていたところ、突然の増水に8人の作業員が巻き込まれた。このうち4人は自力で脱出したものの、現場の整理をしている間に避難が遅れた4人が濁流の中に取り残された。 救助関係機関各所の連携ミス、相互の責任転嫁、さらに機材不足もあり、熱心な地元民の張永成が川に入って救助を試みたにも関わらず、メディアの全国生中継と目の前の家族が見つめる中、19時8分に4人の作業員は濁流に飲み込まれてしまった。
※この「事件経過」の解説は、「八掌渓事件」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「八掌渓事件」の記事については、「八掌渓事件」の概要を参照ください。
事件経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 23:38 UTC 版)
1996年頃、ジー・コスモス・ジャパンが資金集めを開始。 2002年3月、警視庁が出資法違反でグループ各社を一斉捜索。 2002年4月、大神個人とグループ会社のジャパンジー・オーグループインターナショナル、ジー・コスモス・ジャパン、神埼共栄開発、みなもと債権回収に破産宣告。 2002年9月、警視庁生活経済課が大神と会社幹部7人を組織犯罪処罰法違反(組織的詐欺)と詐欺容疑で逮捕。 2005年9月、破産終結。 2007年7月2日、東京地方裁判所で大神源太に懲役18年の実刑判決。大神は控訴したが、他の幹部は控訴せず有罪確定。 2008年10月20日、東京高等裁判所の控訴審で大神源太に1審と同じく懲役18年の実刑判決。大神は上告。 2010年9月27日、最高裁判所は大神源太の上告を棄却することを決定し、大神の懲役18年の実刑判決が確定した。
※この「事件経過」の解説は、「ジー・オーグループ」の解説の一部です。
「事件経過」を含む「ジー・オーグループ」の記事については、「ジー・オーグループ」の概要を参照ください。
- 事件経過のページへのリンク