事件経過とは? わかりやすく解説

事件経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/28 07:53 UTC 版)

館陶事件」の記事における「事件経過」の解説

1942年昭和17年)、日本陸軍の第59師団歩兵53旅団独立歩兵42大隊は、臨清市中心に東臨道北部駐屯し、うち第5中隊館陶県配置していた。12月下旬当時大隊主力は「と号作戦」と称する第12軍各部隊による掃討作戦参加中で、大隊長五十嵐直彦大佐出陣し不在だった。 第5中隊に対して隊員のうち10人を大隊本部転属させるよう命令出された。第5中隊長は、まずはK兵長ら6人に対し転属命じた。K兵長らは、大隊本部への転属命令を、危険の大きな太平洋方面への転属前段階予想して不満に感じた。ある兵士目撃証言によると、12月26日夜にK兵長らは中隊長室の前で、転属対象から外してほしいと泣いて懇願していたという。 12月27日、第5中隊長幹部は、K兵長転属予定者6人を送るために壮行会開いた。しかし、K兵長らは、酒の用意少なかったことを不満として壮行会退席してしまった。うちM上等兵ら4人は兵舎飲酒後、規則無視して町の食堂へと夜間外出しようとし、制止しようとした週番下士官説得試みたA准尉らを殴打中隊長胸倉を掴まれるなどした。K兵長2人別に外出した。ほとんどは深夜になって帰営したが、M上等兵食堂無断外泊した。 翌28日、K兵長ら3人が再度無断外出しM上等兵合流して町の食堂酒盛り始めた大隊本部への出発予定時刻になって帰営せず、中隊長帰還命令無視した。昼ごろになって転属予定者のうちH上等兵泥酔状態で中隊本部乱入、A准尉殴打した竹刀制圧しようとする下士官もあったが、なおも説得にこだわる中隊長が許さなかった。調子に乗ったH上等兵銃剣抜いて暴れだし、M上等兵加勢して中隊長幹部追いかけ始めたM上等兵衛兵所にも侵入して窓ガラスを割るなど設備破壊備えつけ小銃を手にして発砲手榴弾投げたその後M上等兵とH上等兵、K一等兵は、小銃乱射しながら駐屯地内外徘徊したが、中隊長以下の幹部衛兵司令らは実力行使行わず逃げ隠れしてしまった。その他の兵たちも危難恐れて駐屯地外へ全員逃げ出したM上等兵らは町の食堂繰り出して夕方まで飲酒続けた後、ようやく帰営同僚兵士記念撮影のあと、17時30分頃転属先の大隊本部出発した駐屯地脱出した中隊長らは、近在警察署電話借りて大隊本部へと事態通報、K兵長転属者が出発した後の23時頃に駐屯地へと戻った大隊本部は、到着したK兵長転属者を営倉入りさせるとともに警備要員館陶増派した。 急ぎ帰還した大隊長憲兵による捜査始まり、翌1943年昭和18年1月6日には第12軍司令部から軍参謀法務部長らも現地派遣された。1月7日館陶駐屯部隊は第5中隊から大隊予備隊に交代となり、翌8日、第5中隊長責任をとって自殺した第12軍軍法会議裁判開かれ用兵党与上官暴行抗命罪などでM上等兵とH上等兵死刑、K一等兵無期懲役、K兵長残り転属予定者3人が有期懲役禁錮となったほか、衛兵幹部一部も守地や勤務所を放棄したとして辱職罪有罪判決禁錮刑)を受けた大熊貞雄歩兵53旅団長五十嵐直彦独歩42大隊長30日謹慎処分受けたうえ、土橋一次第12軍司令官および柳川悌第59師団長とともに予備役編入となった事件当時館陶駐屯だった兵士全員も、適切な対応を怠ったとして重営倉1週間懲罰処分相当とされたが、実際に軍人勅諭戦陣訓筆写をもって代わり処分とされた。その後、第5中隊改組された。

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事件経過

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お由羅騒動」の記事における「事件経過」の解説

ここに及んで斉彬派は江戸家老島津壱岐二階堂主計といった改革派加え、藩内若手期待得たのに対し久光派は島津久宝久徳伊集院平・吉利仲といった斉興側近家老固め調所築いた安定堅守しようと鋭く対立した嘉永2年1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳夭逝すると、斉彬・久光両派の対立はまさに一触即発の状態となり、特に血気盛ん若手の多い斉彬派による久光重臣襲撃の噂が絶えなかった。その機先を制するかのように同年12月3日1850年1月15日)、斉彬派の重鎮町奉行物頭近藤隆左衛門同役山田清安船奉行高崎五郎右衛門久光お由羅及びその取り巻き重臣らの暗殺謀議したとの咎で捕縛され間もなく切腹言い渡された(即切腹となったため謀議真偽については不明)。同罪状でその他3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居遠島などの処分下されたその際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動前に病没していた二階堂は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧おこなわれた。この禍は薩摩本国国元のみならず江戸屋敷まで及び、嘉永3年4月26日1850年6月6日)、島津壱岐更迭され隠居謹慎を命ぜられた(下命2日後28日8日)に切腹)。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。 この時西郷吉之助(隆永、のちの隆盛)は、父・吉兵衛から吉兵衛御用人をしており介錯務めた赤山靭負切腹様子聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願うようになるまた、大久保利通にとってはさらに影響大きく琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免のうえ、鬼界島遠島になり、自らも記録所書役助を免職謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷援けたという。

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東安駅爆破事件」の記事における「事件経過」の解説

ソ連対日参戦翌日1945年昭和20年8月10日朝、東安駅では最後避難列車出発準備中だった。停車中の避難列車3本のうち2本までは無事に発車した最終列車は、満鉄駅員回想によれば前後機関車連結した30両近い長大編成で、駅中央の6番線停車していた。最終列車には黒咀子開拓団避難民880人などが乗車していた。 駅員最終列車発車前に1番線脇の駅舎倉庫火を放った最終列車以外が発車した後に着火したという証言があるが、1番線待機中の列車に乗っていたが駅舎倉庫火災が熱いため6番線列車移ったとする証言もある。 給水塔鉄橋破壊作業をしていた兵士乗車時間かかったが、ようやく駅員含め全員6番線最終列車乗車して発車サイン出された。しかし、編成が長過ぎて列車はなかなか動きださず、5-6分も構内停滞するうち、13番線脇に雨除けシートをかけて野積みされていた日本軍弾薬爆発した爆発前、数人日本兵弾薬の山に放火したのが目撃されている(詳細は#爆発の原因参照)。取材した駅員回想によるとして、激し爆風受けて爆発地点最も近い中間部分無蓋貨車3両が横転したとされる。これに対し機関車と前から何両かが吹き飛んだとする乗客当事者証言もある。いずれにせよ多数乗客吹き飛ばされ死傷した死者数は#犠牲者参照)。 横転車両部分から列車切断され、うち前方部分はそのまま発車した後方部分横転車両除いて再編され、約2時間後に生存乗客残留駅員乗せて発車した。しかし、前方部分は東海駅後方部分西東安駅でソ連軍機の空襲受けていずれも放棄され、すぐに徒歩での避難切り替わった前方部分に乗車していたグループは、牡丹江市へ歩く途中8月11日ソ連戦車攻撃受けて四散し死者行方不明者など40人を出した。これに対して機関車吹き飛んだとする証言では、昼ごろ、あらためて来た別の機関車に、残り避難列車つながれ動き出したとする。

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名張毒ぶどう酒事件」の記事における「事件経過」の解説

奥西は1926年大正15年1月14日事件の舞台となった名張市葛尾地区生まれる。 奥西は1940年昭和15年)に高等小学校卒業後、参宮急行電鉄入社した。奥西は地元では「長身美男子」として評判で、のちに事件死亡した奥西の妻も近鉄名張駅働いており、奥西夫妻一部親族反対を受けつつも懸命に説得して結婚し、1男1女の子供恵まれた1961年3月28日三重県名張市葛尾地区公民館葛尾分館現存しない)で、地区農村生活改善クラブ(現「生活研究グループ」)「三奈の会」の総会が行われ、男性12人と女性20人が出席した。この席で男性には清酒女性にはぶどう酒出されたが、ぶどう酒飲んだ女性17人が急性中毒症状訴え、5人が亡くなった捜査当局は、清酒出され男性ぶどう酒を飲まなかった女性3人に中毒症状見られなかったことから、女性飲んだぶどう酒原因があるとして調査した結果ぶどう酒農薬混入されていることが判明したその後重要参考人として「三奈の会」会員男性3人を聴取する。3人のうち、1人の妻と愛人がともに被害者だったことから、捜査当局は、「三角関係一気解消しようとした」ことが犯行の動機とみて、奥西を追及4月2日時点では自身の妻の犯行説主張していたが、4月3日には農薬混入自白したとして、三重県警察逮捕された。逮捕直前、奥西は名張警察署記者会見応じた。しかし、逮捕後の取り調べ中から犯行否認転じる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 18:15 UTC 版)

志布志事件」の記事における「事件経過」の解説

2003年当時鹿児島県議会曽於郡選挙区定数3で、自民党公認現職3名が無投票再選される見通しとなっていた。ところが、志布志町議会議員であった中山信一無所属出馬したことにより、一転して4名による激し選挙戦繰り広げられ中山3位当選(後に自民党会派参加)。自民党現職市ヶ谷誠が次点となり落選した

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竹橋事件」の記事における「事件経過」の解説

午後11時、橋西にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し騒ぎ聞いて駆けつけ大隊長宇都宮茂敏少佐続いて週番士官深沢巳吉大尉殺害した一方東京鎮台予備砲隊は、岡本少佐突如内山少尉提案退け静観姿勢へと転換午後10時飛鳥山への行軍開始した暴動発生後参加勧める部下抑えそのまま飛鳥山宿泊した砲兵隊門前を出ると、既に近衛歩兵第1、第2連隊出動しており、これと銃撃戦になった戦闘紛れて反乱軍大蔵卿大隈重信公邸銃撃加え営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘鎮圧軍側では坂元少尉ら2名が死亡し、4名が負傷対す反乱軍側も6人が死亡し70名以上が捕縛された。 この戦闘小銃弾大幅に消耗してしまった反乱軍午後12時やむをえず天皇のいる赤坂皇居へと向かい、集まる参議らえようとしたこの道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局週番士官説得に応じて投降営舍戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮到着すると、騒ぎ諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され正門到着し、「嘆願趣きあり」 と叫んだ正門警備している西寛二郎少佐率い近衛歩兵隊が一行阻止し武器渡せと叫ぶと、反乱代表として前へ出た兵士一瞬斬り掛る風を見せたが、士官背後近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て士気喪失し、刀を差し出した続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員午前1時半をもって武装解除し投降蜂起してからわずか2時間後のことであった一方東京鎮台予備砲隊では内山少尉数名部下連れ赤羽火薬庫まで弾薬取りに行くが、時既に暴動鎮圧されていた。 同日午前8時、早くも陸軍裁判所逮捕者への尋問始められた。裁判長黒川通軌評事山川浩中佐評事伏谷惇および阪元純煕少佐参座国司順正中佐西寛二郎少佐、鑑岡信綱少佐大島久直少佐がつとめ、10月15日判決下された騒乱加わった者のうち、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉118名が准流刑内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑処せられている。士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田一郎大尉松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪除隊甲斐宗義大尉が降官、川上中尉池田綱平少尉松村恒久大尉らが停職となった事件直接参加していない兵士民間人1名を含め全体処罰受けたものは394名だった。

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鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件」の記事における「事件経過」の解説

1999年7月 - 鹿児島国際大学経済学部人事管理論および労使関係論」担当教員教授または助教授公募2000年2月22日 - 経済学部教授会候補者採用賛成多数決定3月13日 - 学長は、関係者事情聴取を行うこともなく教授会結論否定し当該候補者不採用通知送付3月24日 - 臨時教授会学部長が「採用人事をめぐる学長所見」を報告し理事長のもとに「大学問題調査委員会」を設けたいとする学長意向紹介された。 8月4日 - 調査委員会による事情聴取1回目)。 11月25日 - 調査委員会による事情聴取2回目)。 2001年10月11月 - 「懲戒理由書」が4名の教員自宅あてに送付11月 - 弁明聴聞2002年3月29日 - 学校法人津曲学園理事会処分決定(3名は「懲戒退職」、1名は「減給6ヶ月」)。

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テンプスタッフ登録女性派遣労働者容姿ランク付名簿流出事件」の記事における「事件経過」の解説

1998年1月1日 - 24日に、容姿ランク付きリストとして神奈川県個人インターネット上開設した会員制ウェブサイト販売されるテンプ社のシステム関係担当した外注業者社員が、テンプ社から持ち出した顧客リストを、データベース作成テストデータとして、自分ノートパソコン記憶装置複写し持ち出しサイト入会金10000円引き換え販売したテンプ社はサイト閉鎖をさせ、リスト購入した10人に返金申し出名簿回収求め電子メール送った1月28日に、労働省記者クラブ篠原欣子社長記者会見し、「すみませんすみませんすみません」と泣きながらひたすら頭を下げたテンプ社のサイト謝罪経過説明掲載しリスト載った9万人登録者全員謝罪文郵送した3月24日に、リスト販売するサイト新たに発見され対応し以後3次流出はないと主張している。 6月に、被害にあった派遣労働者のうち6人が、計600万円損害賠償求めて東京地方裁判所提訴し2000年和解する

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王恭廠大爆発」の記事における「事件経過」の解説

天変邸抄(中国語版)」では次のように記されている:「天啓丙寅五月六日巳時、天の色は皎潔となり、いきなり吼えるような爆音がし、北東部から北京城南西隅に至るまで、灰が吹き出し家屋揺れたしばらくの間大地震がきて、空は崩れて、夜のように暗くなり、部屋平らに沈んだ。東は順城門大街(現在の武門内大街)、北は刑部街(現在の西長安街)まで至り、西は平則門(現在の阜成門)南まで及び、長さ3,4里、周囲13里を粉塵覆った死体積み重なり大気汚れ天は燻り瓦礫は空に満ちて振り注ぎ街道門戸なくなった」。 爆発によって一瞬のうちに京城内の人畜、樹木煉瓦石は突然吹き飛び、どこかへ飛び去った爆発威力は非常に大きく、「密雲から遠く離れた大木」でさえ裂け飛び、石駙馬大街(現在の新文化街)にある約3トン巨大な獅子石像が、順成門(現在の武門)外に投げ出された。その後、「のように木、石、人が空から降り始めた数千建物数百人の人々だった」。爆発の中で「理由分からないが、負傷した男女の体は皆服がはだけており」、かつ死者も「皆裸だった」。 当時皇帝天啓帝は乾清宮朝食とっていた。突然、地震起き建物揺れ立ち上がり清宮から急いで出て交泰殿まで走った急いだため「お付き内侍追いつけず、ただ一人内侍がそばについていた」が、途中建造中の殿瓦が落ちてきて」、その内侍の頭部に瓦が直撃しその場死亡した紫禁城本殿修繕中の工匠は、「地震により2,000人以上が屋根から落下し全て肉の袋となった死亡した)」。皇妃任皇貴妃宮中器物落下し粉々になり、まだおしめをつけていた皇太子慈炅はその日ショック死した。 爆発音は、南は河西務、東は通州、北は密雲昌平にまで至り北京から150キロメートル以上離れた遵化宣化大同山西省広霊県天津でも、激し振動感じられた。爆発後に北京入りした者の報告では、西安門付近に金属の残骸落下していた、人々衣類西山あるいは北東郊外漂い木々てっぺん引っかかっていた、昌平の州学校には、衣類銀貨首飾り、器や皿が飛び散っていた、とある。王恭爆発威力莫大であるが、地震振動巨大であり、火薬庫から遠く離れた場所での地震引き起こした理由説明することはできていない。さらに爆心地は「木材燃えておらず、燃えた痕跡もなかった」。 爆心地には、上級役人の薛風翔、房壮麗呉中偉がいたが座轎(駕籠)は地震壊れ負傷者多数出た工部尚書の董可威は両腕骨折した御史の何廷と潘翼は自宅被災し死亡した両家老人子供は「土中埋まって死んだ。宣府の楊総兵の7人は馬とともに姿を消した。承恩寺街を進んでいた轎子は、通り中心破損し女性乗客人夫が行不明となったまた、「粤西会館」の玄関口にいた教師と学生合わせて36人は、巨大な振動音の後、行方不明となった不思議な話としては、北京来てわずか2日だった紹興市出身の周姓の役人の弟が市口で6人と会った時、お辞儀拝揖がまだ終わらないうちに、周の頭が突然に吹き飛び、体が地面倒れた。他の6人は無事だったという。 爆発の際、多く樹木根こそぎ遠く吹き飛び、豚、馬、牛、羊、ガチョウさらにはバラバラになった頭や手足さえも雲中まで打ち上げられ、空から落下した。この屍のは2時間上続いたと言われている。丸太石塊、人の頭や千切れた手足さまざまな家畜死体天から降り注いだ。特に徳勝門の外に落下したの手足が多かった爆発後、「京城中には被害者はいなかった。建物はすべて破壊されており、秩序なくなった挙国狂ったようになり、象房が壊れ象が逃げた爆発時に発生したは、乱れたのようだったという者もあれば、5色光っていたという者もあり、また黒色霊芝のようだったという者もいた。天を衝くように発生し時間とともに散った」。また、2万人以上の住民死に至る負傷をし、腕の切断骨折頭部外傷者が多数いて、遺体至るところにあり、悪臭酷かった」。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:46 UTC 版)

神戸長田区小1女児殺害事件」の記事における「事件経過」の解説

2014年9月11日 - 女児が行不明になり、母が長田署に捜索願。 9月12日 - 兵庫県警公開捜査女児持ち物思われるリュックサック写真併せて公開9月16日 - 女児後ろを歩く容疑者防犯カメラ映っていたことから、容疑者の男K宅を捜査員訪問し任意でK宅を調べる。 9月23日 - 夕方捜索していた捜査員女児遺体腐乱臭に気付き雑木林放置してあったビニール袋から腐敗進んだ女児遺体肉片とたばこの吸い殻とK名義診察券発見9月24日 - 兵庫県警捜査本部設置。酒に酔い雑木林の方へ向かう遺体遺棄現場から30メートルに住む容疑者捜査員発見し任意同行をもとめ、前日発見されビニール袋中にあった吸い殻DNA一致したため逮捕9月26日 - 警察家宅捜査女児リュックサック容疑者宅から発見10月14日 - Kを殺人容疑再逮捕10月21日 - Kが殺害自供10月31日 - Kの鑑定留置が行われ、その後神戸地方検察庁刑事責任能力ありとした。 2015年1月30日 - 神戸地検殺人わいせつ目的誘拐などの罪で起訴2016年3月7日 - 神戸地方裁判所初公判3月18日 - 裁判員裁判死刑判決弁護側が大阪高裁控訴2017年3月10日 - 大阪高裁一審破棄し無期懲役の判決検察側は判決不服として最高裁に上告2019年7月3日 - 最高裁検察の上告を棄却

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:19 UTC 版)

金廠溝事件」の記事における「事件経過」の解説

1936年1月29日ソ連との国境に近い満州国密山県の金廠溝に駐屯する満州国軍国境監視隊で、組織的な脱走発生した士官率いられ満州国軍兵ら108人が、日本人幹部日系軍官)3人を殺害し兵舎火を放ってソ連領へと向かった。 翌1月30日反乱事件知った日本陸軍第3師団一部満州国軍部隊出動し追跡あたったところ、日本側の記録によれば金廠溝南方の875高地付近満州国領)で、突如として射撃受けた日満軍も応射して戦闘となり、日本側の戦死9人と戦傷7人など双方に相当の死傷者出た日本側はソ連兵死体1体回収したことなどから、ソ連ゲーペーウー部隊脱走兵とともに射撃行ったものと判断した。 一旦は戦闘収まったものの、2月1日にも、前線視察向かった日本軍歩兵第68連隊第3大隊長一行ソ連兵7-8名との間で銃撃戦発生した日本側は満州国軍500人などを増派して警戒強めたが、それ以上戦闘は起こらなかった。 2月下旬日本の外務省現地特務機関関係者から事情聴取した結果によれば最初に戦闘起きた地点ソ連領内150mほど入った地点であった。これは、現地日満軍部隊が所持していた地図不正確であったため、誤って越境したものだった。

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ファン・イムホフ号事件」の記事における「事件経過」の解説

1942年1月、「ファン・イムホフ」は、スマトラ島シボルガから、イギリス領セイロン島のコロンボへと出航した乗船者は、オランダ人乗員48人とオランダ軍警備兵62人、ドイツ人抑留478人の計588人だった。同船には救命ボート300人分ほどしかなかったため、船長は軍当局に対して問題があると警告行ったが、速やかに出航するよう命じられた。また、オランダ当局は、仮に遭難した場合にはドイツ人救助しないことも指示していた。 1月19日夕刻、シボルガ西方110海里付近洋上で、「ファン・イムホフ」は日本軍機の攻撃受けた日本機は爆弾5発を投下し機銃掃射行った。うち爆弾1発が命中し航行不能となった「ファン・イムホフ」はゆっくりと沈み始めたオランダ人乗員兵士救命ボート6隻のうち5隻を降ろしドイツ人抑留者を後に残したまま全員が船を脱出した。あと1隻の救命ボートは、うまく降ろすことができなかったのであきらめられた。 ドイツ人たちは、オランダ人たちが退船した後に自力脱出試みた。2時間後に船が沈没するまでに、なんとか海面降ろすことができた救命ボート1隻と作業用小型ボート1隻、筏6隻で計201人が船を離れた。ほかの277人は溺死した。筏のうち4隻も、翌朝までには沈んでしまった。 「ファン・イムホフ」の遭難知ったオランダ当局は、救助隊派遣した。ただし、オランダ海軍は、ドイツ人見殺しにするよう救助隊指示したドイツ人救助船乗ろうとしたときには武力によって阻止すべしという秘密命令出されていた。翌1月20日午前には、オランダ海軍カタリナ飛行艇漂流者発見しオランダ船「ベロンガン(インドネシア語版)(Boelongan)」が救助駆け付けた。しかし、「ベロンガン」は、漂流者ドイツ人であることに気付くと救助作業止め一人収容せずに引き返したその後ドイツ人遭難者のうち筏に乗った者はすべて行方不明となり、ボート乗った者だけが1月23日ニアス島へと漂着した生存者66人で、再びオランダ植民地政府によって拘束された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 10:04 UTC 版)

八掌渓事件」の記事における「事件経過」の解説

2000年7月22日17時10分頃、嘉義県番路郷八掌渓呉鳳において、経済部水利第五河川局派遣した作業員河床工事作業をしていたところ、突然の増水に8人の作業員巻き込まれた。このうち4人は自力脱出したものの、現場整理をしている間に避難遅れた4人が濁流中に取り残された。 救助関係機関各所連携ミス相互責任転嫁、さらに機材不足もあり、熱心な地元民の張永成が川に入って救助試みたにも関わらずメディア全国生中継目の前家族が見つめる中、19時8分に4人の作業員濁流飲み込まれてしまった。

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