生活改善
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 06:47 UTC 版)
白鳥は、明治30年(1897年)ごろから十和田湖や酸ケ湯温泉が将来必ず観光地として脚光を浴びる日が来ると考えていた。当時、青森から酸ケ湯温泉に行くには荒川から金浜を経て行く細い山道しかなかった。そのため、荒川には3軒の宿屋があり、酸ケ湯へ行く人々は荒川を午前3時位に出発した。 白鳥は、観光地になるには車が通れるような道路が必要だと考え、荒川から金浜、居繰沢、寒水沢を経て酸ケ湯へと至るルートを自ら選び、村が少額の経費を出してさえくれれば自己負担しても良いと考え、道路造成を村会に提案した。ところが村会は、また白鳥のもの好きが始まった、山に車で行くなんて出来るわけがないと満足に審議もせず否決してしまった。ところが昭和10年(1935年)に横内から酸ケ湯・十和田湖に至る観光道路が開かれ、バスが走る様になると荒川村民は白鳥の先見の明に驚くとともに、バス路線から外れた事を悔やんだと伝わっている。 白鳥が進歩的な考え方を持っていたことは明治44年(1911年)ごろに荒川(堤川)上流の居繰沢を眺めて次のような詩を作ったことからもうかがえる。 一水せんかんとして西に向って流れ 懸崖絶壁忽然として降る 他年動力応用の時 誰か居繰滝の場に工を起さん 白鳥の予想通り、この地に水力発電所が建てられ、その水力によって荒川村に電灯が燈ったのは大正6年(1917年)、白鳥の死の2年後の事であった。 また、白鳥は消防の重要性を考え、自費で龍吐水を購入して村に寄付し、消防団『協同組』を組織させた。 村長時代の白鳥は、外出時にはいつもフロックコートをまとうハイカラ村長であったが、明治27年(1894年)に著した『交際子 全 一名金言都々逸』がある。これは交際と礼儀に関するエチケットを都々逸約1150句にしたもの。 緒言で「今我国は日進月歩の有様ありといえども、制度風習憂ふべき点なきにあらず、あるひは籠の鳥然たる人、あるひは粗放粗雑なる気風、あるひは蛙の如くはふて礼す、あるひは時間の貴きを知らざるが如き作法あり、多数の修身交際法みだれて、少数の礼儀また定らざる有様あり、これをもって今日の急務はわれわれ多数の人民がいかなる位置にあるやを察し、われわれをして解き易くさとり易き方法をもって多数の心をひらくにあらん」と白鳥は文明開化の勢いで、西洋文化が入り込み、旧来の文化と入り乱れ、雑然としているのを憂いたのだと言う。 「おとこ女と交際するは 教育上にかなめこと」 「女子と男子席まじえずと 早き時代のしばり言」 「男女たがひに交際すれば おこなひかへりて清ふなる」 「学びならひて交際せよや 不学は浮世のつみつくり」 「女子相和し手をたづさへて園を歩むの風を採れ」 「可愛い婦人をお護りなさいこれぞ文明おとこ肌」 日清戦争前に、男女共学、男女の交際を勧めている。また、 「人の前にてヅボンのはしの ボタン外るは見苦しい」 「常に用ゆるヅボンの色は 上衣色より薄き色」 「日本のかたは食事にだまる 西洋かたは相かたる」 「フライ ビフテキ ロースの類はナイフで切りとりたべ上がれ」 「公け会に婦人があらばこれに上席ゆづりやれ」 と洋風の礼儀作法を衣食住にわたって心得を述べている。この他、 「お若い時に美しなどと 言へば老婆もうれし顔」 「お色自慢の女の前でよその小町を賞めしやるな」 「むごい話しや軍のことは婦人否がりよろこばぬ」 と言った男女交際のコツなども書かれている。 白鳥がこうしたエチケット集を出版したのは、荒川村やその近隣が旧態依然とした風習の中にあり、虚礼廃止や冠婚葬祭の簡略化などの生活改善運動を率先して行うためであった。その運動のために、明治32年(1899年)に当時30円以上した幻灯器を自費で購入し、生活改善・文化・人物・日清戦争の戦況などを、村内は勿論津軽地方を無料巡回映写し、普及活動に努めた。 明治40年((1907年))に設立した荒川村矯弊会の趣意書に次のような事を白鳥は書いた。 「ああ今やわが国は戦後(日露戦争のこと)の経営にあたり、国民の多数は或は世界一流然として意気まさに揚々たらんとす。しかしてこれ果して永久に持続し得べきか、翻って内治外交に顧ればじつに寒心せざるを得ざる点なきにあらざるなり」
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