日本側の記録
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ミリ環礁に駐屯していた第66警備隊は、本事件に関する詳しい記録は取っておらず、関係する資料も残っていないとされる。また、第66警備隊司令の志賀正成大佐も、部下が起こした米兵搭乗員捕虜処刑の責任を取って、敗戦後に収容先のグアムで自決しており、真相は不明である。また、事件の日本人当事者の証言も現在のところ存在しない。 ただ、韓国の『日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会』による発表内容において、、1952年に日本の第二復員省 職員が作成した『旧海軍軍属身上調査表』で、事件の経緯が詳しく記録されているのを発見したと発表し、身上調査票には、当時反乱鎮圧に参加した中川清人海軍大尉の証言が記録されていると主張している。
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日本側の記録
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日本側の同時代資料には少弐満貞の注進状がある。その内容は、以下のようなものであった。 「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。 対馬侵攻が実施されたのは、ちょうど幕府と明との関係が悪化していた時期であった。『看聞日記』の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する。京都に着いた宋希璟は、初め将軍・足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希璟は、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した。 また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介している。 6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。 300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)によると、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退した。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしており、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。
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