対馬侵攻とは? わかりやすく解説

対馬侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「対馬侵攻」の解説

10月5日、元軍は対馬小茂田浜(こもだはま)に襲来。 『八幡愚童訓』によると、対馬守代・宗資国 は通訳通して元軍に来着事情尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国80余騎で陣を構え矢で応戦し対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍思しき人物を射倒し宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。 同日、元軍の襲来伝達するため、対馬勢の小太郎兵衛次郎ひょうえじろう)らは対馬脱出し博多出航している。 対馬の惨状高麗史金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人多く殺害したまた、高麗軍司令官金方慶墓碑金方慶墓誌銘』にも「日本討ち入りし、俘馘(捕虜)が甚だ多く越す」 とあり、多く被害島人与えた。 この時の対馬の惨状について、日蓮宗宗祖日蓮は以下のような当時伝聞伝えている。 去文十一年(太歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテシニ対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどりニシ、女ヲハ或ハ取集とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス一人モ助カルナシ壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) — 『日蓮書状』、高祖遺文録 この文書は、文永の役翌々年書かれたもので、これによると元軍は上陸後宗資国以下の対馬勢を破って島内民衆殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。 この時代捕虜各種労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地住民捕虜として獲得し奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯将兵の間で下賜贈答献上したりされていた。 同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後捕虜とした日本人の子男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主クトゥルクケルミシュ忽都魯掲里迷失)に献上している。

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対馬侵攻

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元寇」の記事における「対馬侵攻」の解説

5月21日東路軍対馬沖に到着し対馬世界大明浦に上陸上陸した東路軍日本側の激し抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死した

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