1389年の侵攻とは? わかりやすく解説

1389年の侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 01:04 UTC 版)

高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻」の記事における「1389年の侵攻」の解説

高麗史」、「高麗史節要」に拠れば1389年(以下旧暦2月戦艦100艘による対馬侵攻が行われ、朴葳司令官として、金宗衍、崔七夕朴子安が従った。 「高麗史」では日本300艘と沿岸建物焼き尽くし捕らえられていた者100余人救出したとして、帰国後は昌王名義賞賛されている。 日本史料では「宗氏家譜」(1719年編纂)に、同年2月18日高麗軍追い返したとある。これを称して康応の外寇」という。ただし、これは「高麗史」などを参考にのちに記述したものであり、この件での当時日本側の記録存在しないまた、対州編年略」(1723年編纂)は須茂三位法眼早田氏の兵が、「津島紀事」(1809年編纂)は宗慧、宗永と早田丹後日下部土佐の兵が敵に当たったとある。ただし、これらも「高麗史」他を参考にした上で後世の伝承採用したもので、14世紀には存在しなかった地名挙げられるなど史料的に信憑性が低い。 上記のこと以上の記録はないが、現代韓国では激戦の末に倭寇降伏させた大勝利とされている。この攻撃以降倭寇激減したとされるが、上記通り戦果定かではない英国人東アジア戦史権威とされるスティーブン・タンブルは、韓国での説を鵜呑みにして[要出典]著書取り入れその結果日本以外英語圏中心とした海外では韓国側の主張そのまま広まっている。 韓国歴史家である李基白は「韓国史新論」で、この攻撃以降倭寇回数激減したとしているが、「高麗史」の記述では、1391年8月今川了俊高麗へ送った使節からの書状に、「要請により1389年10月から海賊取り締まり行いましたが、昨年1390年10月送った使節が、海賊絶えない責められたことは慙愧堪えません。早速海賊を捕えさせました。」とあり、この後高麗日本側に倭寇取り締まり依頼しており、この事件の後倭寇殲滅ていないことが分かる。 この記録韓国では、「第1次対馬島征伐」と称している。[要出典]

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