後世の伝承
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後世の伝承では、レーソスの白馬がスカマンドロス河の水を飲み、トロイアの牧草を食べるとトロイアは陥落しないと予言されたため、ディオメーデースとオデュッセウスはレーソスを殺したとされる。 パルテニオスによれば、レーソスはアルガントーニオス山で狩をして暮らす乙女アルガントーネーに恋をして、狩りの仲間にしてもらったが、やがてお互いに深く愛し合うようになり、アルガントーネーを妻にすることができたという。トロイア戦争のとき、レーソスはアルガントーネーに引き止められたが、結局トロイアの救援に向かい、トローアス地方を流れる河のほとりでディオメーデースに討たれた。以降その河はレーソスと呼ばれるようになった。 トラーキアのロドペー山地では、レーソスの死後もそこに住み、馬を飼い、狩りをして暮らしており、山の獣たちはレーソスの祭壇に自ら犠牲となるためにやって来るといわれた。またレーソスは疫病から人々を守ったためロドペー山には多くの人が住んだ。 なおポリュアリーノスによれば、前437年にアテーナイ人はアンピポリスの建設にさいし、神託にしたがってトロイアからレーソスの遺骨を運び、ストリューモーン河畔に葬ったという。
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後世の伝承
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「カラチャル (バルラス部)」の記事における「後世の伝承」の解説
ティムール朝の第4代君主ウルグ・ベクはかつてティムールが気に入っていたカルシの軟玉をサマルカンドに運んでティムールの墓石とし、そこにティムール家の系譜を刻ませた。この系譜ではモンゴル部ボルジギン氏の祖アラン・ゴアをアリーの子孫であると位置づけ、アラン・ゴアの子孫トゥメネイ・ハーンの息子カチュリからバルラス部が生じ、カチュリの子孫がティムールであり、カチュリの兄カブルの子孫がチンギス・カン家であるとする。この系譜の内、アラン・ゴアからカブルとカチュリ兄弟に至る部分と、カブルの子孫(チンギス・カン家)の部分は『集史』の記述と一致し史実であるが、カチュリの子孫の部分については同時代史料の裏付けが存在せず史実かどうか疑わしい。 ティムールの先祖たちの伝承を初めて記録したのはヤズディーの『ザファル・ナーマ』序章である。『ザファル・ナーマ』によると、トゥメネイ・ハーンの息子カチュリとカブルがある時を夢を見て、その夢解きをしたトゥメネイ・ハーンは「カブルの子孫が世界を征服してハーンとなり、カチュリの子孫がその軍事と行政を委任されるであろう」ことを予言し、この約束を子々孫々に至るまで守るべくウイグル文字で誓約書をしたためたという。そして、この預言通りにカチュリの子孫は代々カブルの子孫=チンギス家に仕え続け、ティムールの時代に至ったとされる。ただし、このような逸話は『元朝秘史』や『集史』を始めとするモンゴル時代のいかなる史料にも存在せず、またティムール朝初期に編纂されたシャーミーの『ザファル・ナーマ』にも記載がなく、ティムール没後に創作されたものであると考えられている。 このように、ティムール朝でティムール家の系譜が「創作」されていく中でカラチャルの業績も過大視されていくようになった。例えばシャーミーの『ザファル・ナーマ』が「かの強大なる君主(チャガタイ)は、国事・ヤサク及びヨスンの掌握を彼の智恵と知識に委ねていた」と述べるように、あたかもカラチャルがチャガタイ・ウルスの全てを取り仕切っていたかのような記述がティムール朝の史書では見られるようになるが、前述したようにカラチャルの権限はあくまでチャガタイ家内部の問題に限られていた。
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後世の伝承
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「テムル・ブカ (淮王)」の記事における「後世の伝承」の解説
17世紀以後、モンゴル語で記されるモンゴル年代記が多数編纂されるようになったが、そのほとんどにウカアト・カアンが大都を失ったことを歌った「恵宗悲歌 (Lament of Toγon temür)」が所収されている。「恵宗悲歌」は各年代記ごとに内容に差異が存在するが、多くの年代記において「ブカ=テムル丞相 (Buqa temür čingsang)」が大都を守って戦い、ウカアト・カアンの脱出を助けたことを述べる一節がある: 「 闘いて出でしめたり、ブカ・テムル丞相、乱中より 」 —著者不明『アルタン・トブチ』(岡田2010, 187頁より) 「 百万人に畏るるなく闘いて来たれり、ブカ・テムル丞相 」 —シャンバ『アサラクチ史』(岡田2010, 193頁より) 「 闘いて救い出せり、ブカ・テムル丞相 」 —グーシ・ダルマ『アルタン・クルドゥン』(岡田2010, 195頁より) 「 闘いて出でたり、ブカ・テムル丞相 」 —ラシプンスク『ボロル・エリケ』(岡田2010, 196頁より) このブカ・テムルは大都を守って戦死を遂げた淮王テムル・ブカではないかと推測されている。 また、1440年代から1450年代に活躍したオイラトのエセンは父のトゴンの後を継いでからハーンに即位するまで「太師淮王」という称号を用いていたことが明朝の史書に記録されており、この「淮王」という称号はテムル・ブカに由来するものであるとする説がある。曹永年は大都の陥落から200年以上経った時代のモンゴル年代記にすら淮王テムル・ブカを称賛する記事があったことから、北元時代には「ハーンを守って殉死した」テムル・ブカを英雄視する風潮があり、エセンはトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)を擁立する自らの地位を権威づけるため「淮王」という称号を用いたのであろう、と指摘している。
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後世の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 04:26 UTC 版)
後世では、妖精の女王マブ(Mab)とされ、シェークスピアも『ロミオとジュリエット』の中で、夜中に馬のたてがみを編みこむ者、とうたっている。また、ジェームス・マシュー・バリーの戯曲ピーター・パンにもマブ女王は登場している。 元々は夢魔のような存在とされていたが、タイタニアと混同される事が多かったため、その名が広まった[要出典]。数多くの夫に、自分の経血を配合した赤い蜂蜜酒を配り、その支配権を分け与えたといわれる[要出典]。ちなみに、名前の「マブ」は蜂蜜酒の意[要出典]。
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