北元時代
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1368年、明朝が興るとコンギラト部の所領も攻撃を受け、一時的にハーンのトゴン・テムルが逃れていた応昌は1370年に明軍の攻撃によって陥落した。元朝時代の「左手の五投下」の中ではジャライル部のナガチュのみが長く明朝に対抗したが、1387年に明朝への降伏を余儀なくされた。この際に、明軍の攻撃を逃れた人々がフルンボイル地方に逃れており、これが後のハルハ・トゥメンに発展したものと見られる。以後100年ほどの空白期間を経て、コンギラトは内ハルハ5部の一つとして再び史料上に記されるようになる。 17世紀以降に編纂されたモンゴル語年代記でもハルハ・トゥメン傘下の部族としてコンギラトの活動が記されており、コンギラトのアサリ太保(Asali tayibu,エセレイとも)がボライ太師らとともにエセン・ハーンに殺されそうになったバヤン・モンケを護送したことや、ダヤン・ハーンの右翼征討時にバートル・クリスンが活躍したことなどが記録されている。しかし、ダヤン・ハーンの右翼征討以後はコンギラトの名を記されることは少なくなり、代わって「内ハルハ五部」の中ではジャルート部について多く記されるようになるため、この頃に内ハルハで最も有力な部族がハルハからジャルートに代わられたものと推測されている。
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北元時代
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1388年、アリク・ブケの末裔イェスデルがウスハル・ハーン(トグス・テムル)を殺害するという事件が起こった。この時アリク・ブケ家を奉じてモンゴル高原西方の諸部族(旧オイラト部、旧ケレイト部、旧ナイマン部、旧バルグト部)が結集して形成されたのがドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)で、バルグト部はその一角を担った。 ガワンシャラブ著『四オイラト史』はオイラト部族連合に属するバルグ(Barγu)、ブリヤート(Buriyad)を同じグループに分類しているが、これらの部族は13世紀のバルグト部の末裔であると考えられている。
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北元時代
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1368年大都の陥落より清朝の成立に至るまでの時代、「ウリャンカイ」と名のる複数の集団が存在していた。
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北元時代
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至正28年閏7月28日(西暦では1368年9月10日)、明軍が大都に迫ってきたため、ウカアト・カアンは大都を捨てて北走し、上都を経て応昌まで逃れた。応昌でウカアト・カアンは崩御し、その子のアユルシリダラが即位したが、洪武3年(1370年)には李文忠率いる遠征軍によって応昌もまたすぐに陥落した。この時、アユルシリダラの子のマイダリ・バラが捕虜となっている。 明朝は応昌府に応昌衛を設置したが、長続きせずすぐに廃れた。
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北元時代
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元末明初期、東道諸王の中で史書に名を記される有力者としてオッチギン家の遼王アジャシュリがいた。しかしウスハル・ハーンの死を切っ掛けにアジャシュリは1386年明朝に帰順し、その配下の部衆は朶顔衛・泰寧衛・福余衛に組織され、ウリヤンハイ三衛と総称された。ウリヤンハイ三衛はモンゴル側からそれぞれウリヤンハイ(朶顔)、オンリュート(泰寧)、オジェート(福余)と呼ばれていたことが記録されているが、泰寧衛が「オンリュート」と称されているのはオッチギンの子孫で王(ong)であるアジャシュリ及びその子孫が泰寧衛を統治していたためと見られる。 ウスハル・ハーンの死後、モンゴリアではモンゴル部族連合(韃靼)とオイラト部族連合(瓦剌)が争う時代が到来し、オンリュートはモンゴル側に属してオイラトと戦った。明朝で永楽帝が即位すると積極的に北方に進出し、新たにカチウン裔のモンケ・チャガン・ノヤンや卜剌罕衛が明朝に帰順している。アダイ・ハーンの時代よりモンゴル年代記にもオンリュートに属する有力諸侯の活躍が記されるようになり、カサル裔のバートル・シューシテイやカチウン裔のエセクがオイラトとの戦いに出陣したことが記されている。
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北元時代
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1368年、明朝の洪武帝が派遣した軍隊によって大都が陥落すると、トゴン・テムルは北方のモンゴリアに逃れ、北元と呼ばれる時代になった。ハラチン部もまたハーンとともに北遷したと見られるが、1430年代まではアルクタイ率いるアスト部が強大でハラチン部の足跡は不明である。アルクタイがオイラトのトゴンによって殺され、モンゴル(韃靼)勢力がオイラトの支配下に入ると、ハラチン部の名が史書に現れるようになる。1452年トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)がエセンと対立した際には、ハラチン部は阿哈剌知院とともにトクトア・ブハ側についたことが記録されている。トクトア・ブハは敗れたものの、エセンはその配下には比較的寛容で、ハラチン部の首長ボライは7万の大兵力と共に遼東方面に派遣されるなどエセン配下の有力諸侯として扱われていた。 エセン・ハーンがアラク・テムルに殺されオイラト帝国が瓦解すると、ボライはアラク・テムルを撃ち破りマルコルギス・ハーンを擁立することによってモンゴリア最大の勢力となった。この頃からハラチン部は現在のシリンゴル盟南部(清代のチャハル八旗の遊牧地)を拠点とするようになり、これがリンダン・ハーンの征西まで続く。タイシと称し明朝との交渉も順調に進めていたボライであったが、マルコルギス・ハーンと対立しこれを弑逆したためにモーリハイに殺されることとなった。モーリハイもまたホルチン部のウネ・バラトに殺されると、今度はトゥルファン方面出身でヨンシエブ部を率いるベグ・アルスランがモンゴリアの最大勢力となった。ベグ・アルスランはオルドス地方の有力者オロチュを放逐することで周辺の諸勢力を吸収し、ハラチン部もまたヨンシエブ部の傘下に入った。ハラチン部・アスト部といった大勢力を傘下に置いたヨンシエブ部はベグ・アルスラン、イスマイル、イブラヒムといった有力首長を続けて輩出し、「大ヨンシエブ」として広く知られるようになった。このため、後世のモンゴル年代記においてハラチンはしばしば「ヨンシエブ」の名を冠して呼ばれた。
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北元時代
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1368年、南京で建国された明朝の攻撃を受けて大元ウルスは大都を失陥し、長城以南の領地を手放しモンゴル高原に回帰することとなった。 モンゴル高原に回帰した大元ウルスの高官(ノヤン)が頼りとしたのはモンゴル高原に残存するミンガン(千人隊)であり、自らの遊牧地(nutuq)に帰還したノヤンたちは再び遊牧領主化した。多くの領土を失ったモンゴル・ウルスが解体することなく明朝の脅威で在り続けたのは、千人隊制度が健在であったためであると評されている。 14世紀末から15世紀にかけて、モンゴルではクビライ家とアリク・ブケ家との間で帝位争いが相継ぎ、内乱の中でモンゴルの社会体制も変化を余儀なくされた。かつてのミンガン(千人隊)は変容してオトク(otoq)となり、複数のオトクを内包するトゥメン(万人隊)が新たな遊牧集団の基礎単位となった。
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北元時代
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大元ウルスが洪武帝の攻撃によって北走し、明朝が成立するとメクリン部を取り巻く情勢は大きく変わった。メクリン部はオゴデイ・カアンやカイドゥ以来縁の深いオゴデイ家との結びつきを強め、14世紀に即位したオゴデイ裔カアンのオルク・テムルやアダイの有力な支持母体になったと見られている。 宣徳5年(1450年)にメクリン(麦克零)部は始めて明朝の記録に表れ、この時明朝はエジナ方面に居住するメクリン部が辺境に侵攻することを恐れ、使者を派遣して招諭しようとした。これを受けて9カ月後、メクリン部の長モンケ・ブカ(猛哥不花)は沙州衛・赤斤蒙古衛とともに使者を派遣し、明朝に朝貢した。 宣徳帝が亡くなり正統帝が即位した頃より、モンケ・ブカ率いるメクリン部は明朝統治下の沙州衛・赤斤蒙古衛に侵攻するようになった。正統元年(1436年)には沙州衛・赤斤蒙古衛とメクリン部との間に大規模な軍事衝突があり、この戦いでメクリン部を破った功績によって両衛の指導者は明朝より恩賞を受けた。 正統5年(1440年)にはオイラト部の賢義王タイピンの息子のネレグ(捏列骨)がクムルを攻囲し、当時バルス・クル地方で遊牧していたモンケ・ブカはメクリン兵を率いてネレグを破り、これを敗走させた。しかしネレグを撃ち破ったモンケ・ブカは今度は自らがクムルを攻撃し、クムルとの対立関係は正統5年(1443年)まで続いたようである。 一方、同時期に北方のオイラト部はトゴン-エセン父子の下で勢力を拡大し、モンゴリア全域を支配するまでになっていた。正統12年(1447年)にはモンケ・ブカとマウラー平章がオイラト部エセン配下の把把来王を襲撃する事件が起き、メクリン部はオイラト部と敵対関係に陥ってしまった。これ以後の趨勢は不明であるが、クムル同様一時的にオイラト部の勢力下に入ったものと見られている。
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北元時代
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大元ウルスの北遷後コンゴタンがどのような変遷を辿ったかは不明であるが、ダヤン・ハーンの6トゥメンの1つ、ヨンシエブ部には「荒花且」というオトクがあり、これがコンゴタンの後裔ではないかと推測されている。
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