北元時代とは? わかりやすく解説

北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:31 UTC 版)

コンギラト」の記事における「北元時代」の解説

1368年明朝興るコンギラト部の所領攻撃を受け、一時的にハーントゴン・テムル逃れていた応昌1370年明軍攻撃によって陥落した元朝時代の「左手五投下」の中ではジャライル部ナガチュのみが長く明朝対抗したが、1387年明朝への降伏余儀なくされた。この際に、明軍攻撃逃れた人々フルンボイル地方逃れており、これが後のハルハ・トゥメンに発展したものと見られる以後100年ほどの空白期間経てコンギラトは内ハルハ5部の一つとして再び史料上に記されるうになる17世紀以降編纂されたモンゴル語年代記でもハルハ・トゥメン傘下部族としてコンギラト活動記されており、コンギラトアサリ太保(Asali tayibu,エセレイとも)がボライ太師とともにエセン・ハーン殺されそうになったバヤン・モンケを護送したことや、ダヤン・ハーン右翼征討時にバートル・クリスンが活躍したことなどが記録されている。しかし、ダヤン・ハーン右翼征討以後コンギラトの名を記されることは少なくなり、代わって「内ハルハ五部」の中ではジャルート部について多く記されるうになるため、この頃に内ハルハで最も有力な部族ハルハからジャルートに代わられたものと推測されている。

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 14:55 UTC 版)

バルグト」の記事における「北元時代」の解説

1388年アリク・ブケ末裔イェスデルウスハル・ハーントグス・テムル)を殺害するという事件が起こった。この時アリク・ブケ家を奉じてモンゴル高原西方諸部族(旧オイラト部、旧ケレイト部、旧ナイマン部、旧バルグト部)が結集して形成されたのがドルベン・オイラト(四オイラト部族連合)で、バルグト部はその一角担った。 ガワンシャラブ著『四オイラト史』はオイラト部族連合属すバルグBarγu)、ブリヤート(Buriyad)を同じグループ分類しているが、これらの部族13世紀バルグト部の末裔であると考えられている。

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 17:29 UTC 版)

ウリャンカイ」の記事における「北元時代」の解説

1368年大都陥落より清朝成立に至るまでの時代、「ウリャンカイ」と名のる複数集団存在していた。

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:16 UTC 版)

応昌」の記事における「北元時代」の解説

至正28年7月28日西暦では1368年9月10日)、明軍大都迫ってきたため、ウカアト・カアン大都捨てて北走し、上都経て応昌まで逃れた応昌ウカアト・カアン崩御しその子アユルシリダラ即位したが、洪武3年1370年)には李文忠率い遠征軍によって応昌もまたすぐに陥落した。この時、アユルシリダラの子マイダリ・バラ捕虜となっている。 明朝応昌府に応昌衛を設置したが、長続きせずすぐに廃れた

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:00 UTC 版)

オンリュート」の記事における「北元時代」の解説

元末明初期、東道諸王の中で史書に名を記される有力者としてオッチギン家の遼王アジャシュリがいた。しかしウスハル・ハーンの死を切っ掛けアジャシュリ1386年明朝帰順し、その配下の部衆は朶顔衛泰寧衛福余衛組織されウリヤンハイ三衛総称された。ウリヤンハイ三衛モンゴル側からそれぞれウリヤンハイ(朶顔)、オンリュート(泰寧)、オジェート(福余)と呼ばれていたことが記録されているが、泰寧衛が「オンリュート」と称されているのはオッチギンの子孫で王(ong)であるアジャシュリ及びその子孫泰寧衛統治していたためと見られるウスハル・ハーン死後モンゴリアではモンゴル部連合(韃靼)とオイラト部族連合(瓦剌)が争う時代到来しオンリュートモンゴル側に属してオイラト戦った明朝永楽帝即位する積極的に北方進出し新たにカチウン裔のモンケ・チャガン・ノヤンや卜剌罕衛が明朝帰順している。アダイ・ハーン時代よりモンゴル年代記にもオンリュート属する有力諸侯活躍記されるようになり、カサル裔のバートル・シューシテイカチウン裔のエセクオイラトとの戦い出陣したことが記されている。

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:33 UTC 版)

ハラチン」の記事における「北元時代」の解説

1368年明朝洪武帝派遣した軍隊によって大都陥落すると、トゴン・テムル北方モンゴリア逃れ北元呼ばれる時代になったハラチン部もまたハーンとともに北遷したと見られるが、1430年代まではアルクタイ率いアスト部強大ハラチン部足跡不明である。アルクタイオイラトトゴンによって殺されモンゴル韃靼勢力オイラト支配下に入ると、ハラチン部の名が史書現れるうになる1452年トクトア・ブハタイスン・ハーン)がエセン対立した際には、ハラチン部は阿哈剌知院とともにトクトア・ブハについたことが記録されている。トクトア・ブハ敗れたものの、エセンはその配下には比較寛容で、ハラチン部首長ボライは7大兵と共に遼東方面派遣されるなどエセン配下の有力諸侯として扱われていた。 エセン・ハーンがアラク・テムルに殺されオイラト帝国瓦解すると、ボライはアラク・テムルを撃ち破りマルコルギス・ハーン擁立することによってモンゴリア最大勢力となったこの頃からハラチン部現在のシリンゴル盟南部清代チャハル八旗遊牧地)を拠点とするようになり、これがリンダン・ハーン征西まで続く。タイシ称し明朝との交渉順調に進めていたボライであったが、マルコルギス・ハーン対立しこれを弑逆したためモーリハイ殺されることとなったモーリハイもまたホルチン部のウネ・バラトに殺されると、今度トゥルファン方面出身ヨンシエブ部を率いベグ・アルスランモンゴリア最大勢力となったベグ・アルスランオルドス地方有力者オロチュ放逐することで周辺諸勢力吸収しハラチン部もまたヨンシエブ部の傘下入ったハラチン部アスト部といった大勢力を傘下置いたヨンシエブ部はベグ・アルスランイスマイルイブラヒムといった有力首長続けて輩出し、「大ヨンシエブ」として広く知られるようになったこのため後世モンゴル年代記においてハラチンはしばしば「ヨンシエブ」の名を冠して呼ばれた

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:41 UTC 版)

ミンガン」の記事における「北元時代」の解説

1368年南京建国され明朝攻撃受けて大元ウルス大都失陥し、長城以南領地手放しモンゴル高原回帰することとなったモンゴル高原回帰し大元ウルス高官(ノヤン)が頼りとしたのはモンゴル高原残存するミンガン(千人隊)であり、自らの遊牧地(nutuq)に帰還したノヤンたちは再び遊牧領主化した多く領土失ったモンゴル・ウルス解体することなく明朝脅威在り続けたのは、千人隊制度健在であったためであると評されている。 14世紀末から15世紀にかけて、モンゴルではクビライ家とアリク・ブケ家との間で帝位争いが相継ぎ内乱の中でモンゴル社会体制変化余儀なくされた。かつてのミンガン(千人隊)は変容してオトク(otoq)となり、複数オトク内包するトゥメン(万人隊)が新たな遊牧集団基礎単位となった

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北元時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 17:10 UTC 版)

メクリン」の記事における「北元時代」の解説

大元ウルス洪武帝攻撃によって北走し、明朝成立するメクリン部を取り巻情勢大きく変わったメクリン部はオゴデイ・カアンやカイドゥ以来縁の深いオゴデイ家との結びつき強め14世紀即位したオゴデイカアンオルク・テムルアダイ有力な支持母体になった見られている。 宣徳5年(1450年)にメクリン(麦克)部は始めて明朝の記録表れ、この時明朝はエジナ方面居住するメクリン部が辺境侵攻することを恐れ使者派遣して諭しようとした。これを受けて9カ月後、メクリン部の長モンケ・ブカ(猛哥不花)は沙州衛赤斤蒙古衛とともに使者派遣し明朝朝貢した。 宣徳帝亡くなり正統帝即位した頃より、モンケ・ブカ率いメクリン部は明朝統治下の沙州衛赤斤蒙古衛侵攻するようになった正統元年(1436年)には沙州衛赤斤蒙古衛メクリン部との間に大規模な軍事衝突があり、この戦いでメクリン部を破った功績によって両衛の指導者明朝より恩賞受けた正統5年(1440年)にはオイラト部の賢義王タイピン息子のネレグ(捏列骨)がクムル攻囲し当時バルス・クル地方遊牧していたモンケ・ブカはメクリン兵を率いてネレグを破り、これを敗走させた。しかしネレグを撃ち破ったモンケ・ブカは今度は自らがクムル攻撃しクムルとの対立関係正統5年(1443年)まで続いたようである。 一方同時期に北方オイラト部はトゴン-エセン父子の下で勢力拡大しモンゴリア全域支配するまでになっていた。正統12年(1447年)にはモンケ・ブカとマウラー平章がオイラトエセン配下の把把来王を襲撃する事件起きメクリン部はオイラト部と敵対関係に陥ってしまった。これ以後趨勢不明であるが、クムル同様一時的にオイラト部の勢力下に入ったものと見られている。

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北元時代

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コンゴタン」の記事における「北元時代」の解説

大元ウルス北遷コンゴタンどのような変遷辿ったかは不明であるが、ダヤン・ハーンの6トゥメン1つヨンシエブ部には「荒花且」というオトクがあり、これがコンゴタン後裔ではないか推測されている。

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