ウリャンカイ・トゥメンとは? わかりやすく解説

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ウリャンカイ・トゥメン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 17:29 UTC 版)

ウリャンカイ」の記事における「ウリャンカイ・トゥメン」の解説

集史』によるとチンギス・ハーンその子孫たちが葬られヘンティー山脈の禁地を守護する者は、ウリャンカイ部のウダチ(エグデチ)と呼ばれるアミールであったという。この役目代々受け継がれ北元時代には「主(チンギス・ハーン)の黄金守った、また大きな運命のある国人」としてウリャンカイウリヤンハイ)・トゥメン構成した北元時代の「トゥメン」は元の北遷オイラト帝国統一瓦解といった混乱経て新しく形成されたもので前時代部族との関係が不明瞭なことが多いが、少なくともウリャンカイ・トゥメンは前代ウリャンカイ部と直接の関係があると見られるエセン・タイシが全モンゴリア統一した頃にはウリャンカイ部の頭目にチャブダン(沙不丹)という者がいて、娘のアルタガルジンをタイスン・ハーントクトア・ブハ)の妃としていた。しかしタイスン・ハーンはこれを離縁し里方帰してしまっていた。後にタイスン・ハーンエセンとの戦い敗れてチャブダンの所に逃げ込んだところ、これを恨み思ったチャブダンは娘が止めるのも聞かずタイスン・ハーン殺してしまったという。アルタガルジンが生んだタイスン・ハーン息子は後にモーラン・ハーンとなった。またウリャンカイのホトクトが娘のシキルバヤン・モンケ・ボルフ晋王に娶せたこと、ゲレセンジェらを生んだダヤン・ハーンの妃の一人ウリャンカイ出身であったことなども記録されており、ウリャンカイ部がしばしばハーンの妃を輩出する有力な部族一つであったことが窺える長らく分裂状態にあったモンゴルダヤン・ハーン登場によって再統一され、さらにダヤン・ハーン配下の諸集団を六トゥメン(六万戸)に再編成した。ここで、ウリャンカイ・トゥメンはチャハルハルハとともに左翼の三万戸構成し右翼オルドス部対するものとして位置づけられた。上述たようにダヤン・ハーンはその母親と妃がウリャンカイ出身の人物で、ウリャンカイハーンの間には強い繋がりがあった。しかしダヤン・ハーンの後を継いだボディ・アラク・ハーンは特にウリャンカイとの繋がりがなく、ウリャンカイ部の立場変化余儀なくされ、遂にウリャンカイ反乱を起こす至ったウリャンカイはゲゲーン丞相(ゲレバラト丞相)とトクタイ・ハラ・フラト(トロイ・ノヤン)らに率いられ攻撃仕掛けたが、遂にボディ・アラク・ハーンアルタン・ハーンらに討ち滅ぼされた。 滅ぼされウリャンカイの部衆は残る五トゥメン分割され一説にはトゥメトのモーミンガン部、オルドスのウラト部とケウケト部はウリャンカイ征服によって増設された部族とされるウリャンカイ故地にはゲレセンジェの子孫である外ハルハ諸侯進出し清朝成立するころには北モンゴル大部分ハルハ部領地となった

※この「ウリャンカイ・トゥメン」の解説は、「ウリャンカイ」の解説の一部です。
「ウリャンカイ・トゥメン」を含む「ウリャンカイ」の記事については、「ウリャンカイ」の概要を参照ください。

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