ウリャンカイ・トゥメン
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「ウリャンカイ」の記事における「ウリャンカイ・トゥメン」の解説
『集史』によるとチンギス・ハーンとその子孫たちが葬られたヘンティー山脈の禁地を守護する者は、ウリャンカイ部のウダチ(エグデチ)と呼ばれるアミールであったという。この役目は代々受け継がれ、北元時代には「主(チンギス・ハーン)の黄金の柩を守った、また大きな運命のある国人」としてウリャンカイ(ウリヤンハイ)・トゥメンを構成した。北元時代の「トゥメン」は元の北遷、オイラト帝国の統一と瓦解といった混乱を経て新しく形成されたもので前時代の部族との関係が不明瞭なことが多いが、少なくともウリャンカイ・トゥメンは前代のウリャンカイ部と直接の関係があると見られる。 エセン・タイシが全モンゴリアを統一した頃にはウリャンカイ部の頭目にチャブダン(沙不丹)という者がいて、娘のアルタガルジンをタイスン・ハーン(トクトア・ブハ)の妃としていた。しかしタイスン・ハーンはこれを離縁し里方に帰してしまっていた。後にタイスン・ハーンがエセンとの戦いに敗れてチャブダンの所に逃げ込んだところ、これを恨みに思ったチャブダンは娘が止めるのも聞かずタイスン・ハーンを殺してしまったという。アルタガルジンが生んだタイスン・ハーンの息子は後にモーラン・ハーンとなった。またウリャンカイのホトクトが娘のシキルをバヤン・モンケ・ボルフ晋王に娶せたこと、ゲレセンジェらを生んだダヤン・ハーンの妃の一人がウリャンカイ部出身であったことなども記録されており、ウリャンカイ部がしばしばハーンの妃を輩出する有力な部族の一つであったことが窺える。 長らく分裂状態にあったモンゴルはダヤン・ハーンの登場によって再統一され、さらにダヤン・ハーンは配下の諸集団を六トゥメン(六万戸)に再編成した。ここで、ウリャンカイ・トゥメンはチャハル、ハルハとともに左翼の三万戸を構成し、右翼のオルドス部と対するものとして位置づけられた。上述したようにダヤン・ハーンはその母親と妃がウリャンカイ部出身の人物で、ウリャンカイとハーンの間には強い繋がりがあった。しかしダヤン・ハーンの後を継いだボディ・アラク・ハーンは特にウリャンカイとの繋がりがなく、ウリャンカイ部の立場は変化を余儀なくされ、遂にウリャンカイが反乱を起こすに至った。ウリャンカイはゲゲーン丞相(ゲレバラト丞相)とトクタイ・ハラ・フラト(トロイ・ノヤン)らに率いられて攻撃を仕掛けたが、遂にボディ・アラク・ハーン、アルタン・ハーンらに討ち滅ぼされた。 滅ぼされたウリャンカイの部衆は残る五トゥメンに分割され、一説にはトゥメトのモーミンガン部、オルドスのウラト部とケウケト部はウリャンカイ征服によって増設された部族とされる。ウリャンカイの故地にはゲレセンジェの子孫である外ハルハ諸侯が進出し、清朝が成立するころには北モンゴルの大部分はハルハ部の領地となった。
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