トクトア・ブハとは? わかりやすく解説

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トクトア・ブハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 07:13 UTC 版)

トクトア・ブハ
Тогтох Бух
ᠲᠣᠭᠲᠠᠬᠤ
ᠪᠤᠬ᠎ᠠ
モンゴル帝国第27代皇帝(ハーン
在位 1433年 - 1452年
戴冠式 1433年
別号 タイスン・ハーン

全名 トクトア・ブハ・タイスン・ハーン
出生 1422年
死去 1452年
家名 ボルジギン氏
父親 アジャイ太子
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トクトア・ブハモンゴル語: Тогтох Бух英語:Toghtoa Bukha、1422年[1] - 1452年1月19日[2][3][注釈 1])は、モンゴル帝国の第27代ハーン(在位1433年 - 1452年)。モンゴル年代記では、タイスン・ハーンТайсун хаан、Tayisung Khan)の名前で書かれる[4]漢文史料では脱脱不花と表記される。

出自

トクトア・ブハはモンゴルの再統一を成し遂げたダヤン・ハーンの曾祖父アクバルジの兄にあたり、ダヤン・ハーンから始まる北元の皇族の系譜は彼から明らかになる[5]。トクトア・ブハはチンギス・ハーンの末裔であるが、どの王家の出身かは明確になっていない[6]

中国で編纂された『明史』『万暦武功録』では、の王家の出身とされている[7]1442年にトクトア・ブハが李氏朝鮮世宗に宛てて出した書簡では、クビライの子孫を自称していた[8][9]

三人のトクトア・ブハ

15世紀始め、モンゴル高原には「脱脱不花(トクトア・ブハ)」の名前を持つ者が散見するが、これらが全て同一人物かについては議論がある。和田清は全ての「脱脱不花」が同一人物と見るが、Buyandelgerは和田が三名の「脱脱不花」を混同していると指摘する[10]

「脱脱不花」が始めて史料上に登場するのは永楽元年(1403年)7月のことで、鬼力赤(オルク・テムル・ハーン)の配下として、馬児哈咱(マルハザ)・也孫台(イェスンテイ)・板台・阿魯台(アルクタイ)・斡里不花らの次に名を挙げられており[11]、この時点で高い地位を有していたことがうかがえる[12][4]。また、この記録に見える有力者たちはウスハル・ハーンの遺臣(マルハザ・アルクタイ)と鬼力赤直属の部下(イェスンテイ)という二つの派閥に分かれていたが、「脱脱不花」は後者に属していたものと考えられている。

上記の二つの派閥は時代が下るにつれ対立を深めていき、やがて永楽6年(1408年)にはアルクタイがオルク・テムル・ハーンを廃してペンヤシュリー・ハーンを擁立するに至った。恐らくはこれが切っ掛けとなって「脱脱不花」もアルクタイらと袂をわかったようで、永楽7年(1409年)7月に「韃靼脱脱不花王」ら多数の者たちが甘粛辺境のエジネ(亦集乃)地方で明朝に投降を求めたとの記録が見える[13][14][4]。しかし「脱脱不花王」は本心から明朝に投降したわけではなく、同年8月には「来降するも、退回して至らず」と記される[15][14]

この後、永楽10年(1412年)5月には順寧王マフムードが「トクトア・ブハの子は中国にいるが、返却してもらいたい」と明朝に告げたとの記録が見える[16][14]。和田清は「脱脱不花之子」を「脱脱不花王子」の誤りとしてこれを後のハーンと同一人物と見るが、Buyandelgerは上記の通り実際には「脱脱不花王」が明朝に下ったわけではないことを指摘し、和田氏の議論は成り立たないと指摘している[14]

また、宣徳7年(1432年)にも「買来的・小泄・納哈赤・脱脱不花」らが明朝に投降し、この脱脱不花らが百戸に任命されたと記される[17]。和田清はこの「脱脱不花」もハーンと同一人物と見るが、百戸という低い地位しか与えられなかった「脱脱不花」が多くの部下を有する前述の「脱脱不花王」やハーンと同一人物とは考えられない、とBuyandelgerは指摘している[18]

最後に、ハーンとして即位したトクトア・ブハについては、モンゴル年代記で生没年に言及されているが、その解釈については諸説ある。まず『蒙古源流』では壬寅1422年)生まれ、『シラ・トージ』は18歳即位、在位14年、31歳卒とする。一方『黄金史網』は馬年(1438年)即位、在位15年、申年(1452年)死去とされる。両史料をあわせて「31歳卒」「1452年死去」とすると、1421年生まれと逆算でき、恐らくは『蒙古源流』「1422年生まれ」という記述はこの計算に基づく。後述するようにハーンの本来の即位年が宣徳8年(1433年)で、『シラ・トージ』に基づいて18歳即位とすると、永楽14年(1416年)出生、37歳で1452年に死去と計算できる[12]。永楽14年(1416年)出生であれば永楽元年~6年に活動した「脱脱不花王」と同一人物ではありえないので、結局15世紀初頭には「脱脱不花王」「百戸脱脱不花」「ハーンとして即位した脱脱不花」という3人の同名別人が存在したこととなる、というのがBuyandelgerの結論である。

生涯

即位後

15世紀初頭にモンゴル高原で台頭していたオイラト部族の指導者トゴンはハーンを称そうとしたが、伝統的なチンギス統原理のためにハーンへの即位を反対された[19][20]。トクトア・ブハはトゴンによってモンゴル高原に呼び戻され、1433年にハーンに即位した。1434年にオイラトと敵対していたアルクタイを討ち、1438年にトクトア・ブハの即位前にハーンを称していたアダイを滅ぼした。トクトア・ブハはオイラトからフルンボイルを与えられ[19]ケルレン川を本拠地とした[21]。アルクタイが率いていた部衆はトクトア・ブハの傘下に入り、トゴンは丞相(チンサン)となり、名目上はトクトア・ブハがトゴンの上に立つ形となった[22]

トゴンが没し、彼の子であるエセンがオイラトの指導者となった後も、トクトア・ブハは依然としてオイラトの傀儡君主だった[23]。トクトア・ブハは明の朝廷に朝貢し、明側は彼を他の部族長より厚く扱い、文書には「達達可汗(タタル・ハーン)」の称号が使われた[22]1449年土木の変に先立つ明への侵入では、モンゴル高原東部のウリヤンハイ三衛を率いて遼東を攻撃した。

土木の変の後、太子(後継者)の擁立を巡ってトクトア・ブハとエセンの間に対立が生まれる[24]。トクトア・ブハにはエセンの姉が妃として与えられていたがエセンの姉との間に生まれた子を太子に立てようとせず、別の妃との間に生まれた子を太子に指名しようとしたため、エセンは不満を持った[21][25]。また、エセンはトクトア・ブハが明と結託してオイラトを滅ぼそうとしていると疑っていた[26]。トクトア・ブハはハラチン部から送られた援軍とともにエセンを攻撃するが、敗北する[19]。敗れたトクトア・ブハはウリヤンハイ三衛に逃れるが、そこで殺害された[2][26]

トクトア・ブハの死後、北元の皇族はオイラトの人間を母に持つ者を除いて虐殺された[2][26][27]

妻子

アルタン・トプチ』には「タイスン・ハーンに三入の子があった」と明記されており、これに対応するように漢文史料の側でもトクトア・ブハの息子とされる人物が三人記録されている。

アルタガルジン・ハトン…ゴルラト部。離婚した。
  • モーラン・ハーン…漢文史料ではトグス太子(脱谷思太子/Toγus tayiǰi)もしくはトグス・モンケ(忒古絲猛可/Toγus möngke)として言及される。
小ハトン・サムル太后…チョロス部。オイラトの族長エセン・タイシの姉
  • マルコルギス・ハーン…漢文史料では馬児苦児吉思、馬児可児吉思、麻児可児、馬可古児吉思、馬古可児吉思などと音訳され、幼くして即位したことから「小王子」とも称された。
母親不明
  • モンケレイ太子…漢文史料では王子エセン・モンケ(也先猛可/Esen möngke)として言及される。『アルタン・トプチ』では「タイスン・ハーンより先に自害した」と伝えられる。

系図

脚注

注釈

  1. ^ 原文では1542年

出典

  1. ^ 岡田 2010, p. 273.
  2. ^ a b c 宮脇 1995, p. 108.
  3. ^ 岡田 2010, p. 371.
  4. ^ a b c 宮脇 1995, p. 104.
  5. ^ 岡田2010, p. 248.
  6. ^ 森川 1997, p. 329.
  7. ^ 森川 1997, p. 329-330.
  8. ^ 宮脇 1995, p. 105.
  9. ^ 岡田 2010, p. 256,370-371.
  10. ^ Buyandelger 2000, p. 143.
  11. ^ 『明太宗実録』永楽元年七月庚寅(十五日),「遣指揮革来等齎書諭虜主鬼力赤書曰……仍賜所部馬児哈咱・也孫台・板台・阿魯台・斡里不花・脱脱不花・阿憐帖木児・脱火赤・朶児只・蔵卜・哈失帖木児・失剌干・千家奴・打蘭・麻羅呵・脱老温等綵幣・表裏各一」
  12. ^ a b Buyandelger 2000, p. 145.
  13. ^ 『明太宗実録』永楽元年七月丁亥(十七日),「甘粛総兵官左都督何福奏。韃靼脱脱卜花王・把禿王・都督伯克帖木児・都督指揮哈剌你敦・国公賽因帖木児・司徒撒児桃・賽罕・知院都禿・阿魯・把撒児等各率所部来帰、今止于亦集乃。……」
  14. ^ a b c d Buyandelger 2000, p. 144.
  15. ^ 『明太宗実録』永楽七年八月壬寅(三日),「虜酋把禿・伯克帖木児・哈剌你敦・阿魯・把撒児・撒児桃・朶欒帖木児等来帰、至甘粛。先是把禿与脱脱不花・都禿等倶来降、而遅回不至。上勅甘粛総兵官何福等計度処置、而福等已遣兵往撫諭。把禿等遂来帰、脱脱不花都禿等復叛去。……」
  16. ^ 『明太宗実録』永楽十年五月乙酉(二日),「瓦剌順寧王馬哈木等、遣其知院海答児等、随指揮孫観保来朝且言。既滅本雅失里、得其伝国璽。欲遣使進献、慮為阿魯台所要請天兵除之。又言、脱脱不花之子今在中国、請還之。又言……」
  17. ^ 『明宣宗実録』宣徳七年正月丁亥(二十七日),「迤北韃靼買来的・小泄等来帰、奏願居京自効。命買来的為指揮同知、小泄為副千戸、納哈赤・脱脱不花等七人為百戸、所鎮撫……」
  18. ^ Buyandelger 2000, p. 144-145.
  19. ^ a b c 青木 1961, p. 119-120.
  20. ^ 羽田・佐藤 1973, p. 17-18.
  21. ^ a b 宮脇 1995, p. 107.
  22. ^ a b 羽田・佐藤 1973, p. 18.
  23. ^ 羽田・佐藤 1973, p. 75.
  24. ^ 岡田 2010, p. 66.
  25. ^ 岡田 2010, p. 66-67.
  26. ^ a b c 羽田・佐藤 1973, p. 19.
  27. ^ 岡田 2010, p. 67.

参考資料

  • 青木富太郎『アジア歴史事典』 7巻、平凡社、1961年。 
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年11月。ISBN 978-4894347724 
  • 宮脇淳子『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』講談社〈講談社選書メチエ〉、1995年1月。 ISBN 978-4062580410 
  • 森川哲雄『中央ユーラシアの統合』岩波書店〈岩波講座 世界歴史11〉、1997年11月。 ISBN 9784000108317 
  • 羽田明、佐藤長 他訳注『騎馬民族史 正史北狄伝』 3巻、平凡社〈東洋文庫〉、1973年3月。 ISBN 9784582801972 
  • 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』』第6巻、張橋科学研究、2000年。 



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