トゴン全盛時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 02:14 UTC 版)
この戦いと前後して、1431年頃明朝の支配下にあったトクトア・ブハが明朝の下を離れてモンゴリアに向かい、トゴンによって迎えられた。これより以前、タイピン・バト=ボラトを殺してオイラト唯一の支配者となったトゴンは自らハーンとなることを望んでいたが、「チンギス・ハーンの子孫以外はハーンとなれない」というチンギス統原理によって周囲の反対に遭い、これを断念せざるを得ない状況にあった。そこでトゴンはやむなくトクトア・ブハを擁立することでモンゴルの部衆の支持を得ようとし、トクトア・ブハは1433年にハーンに即位してタイスン・ハーンと称した。 タイスン・ハーンを擁立することで正当性を得たトゴンはアルクタイへの攻勢を強め、まずガハイウルンでのタイスン・ハーンとの戦いに敗れたアルクタイは南下してモナ山(現在のダルハン・ムミンガン連合旗)に逃れたが、そこでトゴンによって攻め滅ぼされた。これによってトゴンはモンゴルの大部分を制圧し、アルクタイの旧領の統治は主にタイスン・ハーンに任せられた。
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