トゴンとは? わかりやすく解説

トゴン

名前 Toghon

トゴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 13:18 UTC 版)

トゴン・タイシモンゴル語: Тогоон тайш英語: Toghon taishi、? - 1440年)は、15世紀中頃のオイラトの首長。トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)を擁立し、東モンゴリアの有力者アルクタイを攻殺することによってトグス・テムルの死以来のモンゴリア統一を達成した。漢文史料上では脱歓太師などと表記される。

概要

モンゴル年代記におけるトゴン

蒙古源流』はトゴンがバトラ丞相(マフムード)エルベク・ハーンの娘のサムル公主とのあいだに生まれ、幼名はバクムであったと記している[1]。バトラ丞相はケレヌートのオゲチ・ハシハに殺されたが、オゲチ・ハシハ自身も天罰によって死んだため、その息子のエセクオイラダイ・ハーンを擁立し、サムル公主を娶ってバクムも引き取ったという。この頃、サムル公主はオゲチ・ハシハに虐げられたのを恨みに思って後のアダイ・ハーンアルクタイ・タイシを逃がしているが、この際にバクムはオイラトの仇敵であるモンゴルを利するような行為を責め立てている。

この後、アダイがハーンに即位するとオイラトを攻め、バクムは捕虜となったが、鍋をかぶせて召し使ったことからトゴンと名付けたという[2]。アダイ・ハーンの下でトゴンはアルクタイやモンゴルジン部のモンケベイといった人物の敵意の中で過ごしたが、やがてサムル公主に引き取られてオイラトに帰還した。トゴンはオイラトに戻るとすぐにドルベン・オイラト(四オイラト)の代表者を招集し、ドチン・モンゴル(四十モンゴル)を攻める軍を出発させたという。

漢文史料への登場

漢文史料では、トゴン(脱歓)の名はその父のマフムード(馬哈木)が亡くなった頃より現れるようになる。当時、モンゴリアではアルクタイを中心とするモンゴル(明朝の言う韃靼)、順寧王マフムード(モンゴル年代記におけるバトラ丞相)・賢義王タイピン(モンゴル年代記におけるエセク)・安楽王バト・ボロトの三人に率いられるオイラト(明朝の言う瓦剌)、明朝の永楽帝が覇権を巡って争う時代であった。一時マフムードの勢力は優勢であったものの、これを警戒した永楽帝がアルクタイに協力すると形勢は逆転し、マフムードはアルクタイの攻撃に敗れ1416年に亡くなった。

マフムードの死後、トゴンがその後を継いだものの、それまでマフムードに従属的だったタイピン、バト・ボロトの二人がオイラト内の主導権を握るようになった[3]。マフムードを失ったオイラトは勢力を衰えさせ、アルクタイ率いるモンゴルが優勢になったが、今度はアルクタイの勢力が大きくなりすぎることを恐れた永楽帝は永楽20年-21年にわたってモンゴルへの遠征を行った。これを好機と見たトゴンはアルクタイへの攻撃を始め、永楽21年(1423年)にはこれを敗り、その配下の人々・家畜を略奪した[4]。永楽帝の死後、トゴンは益々アルクタイへの圧迫を強め、宣徳6年(1431年)の遠征によってアルクタイは本拠のフルンボイル地方より逐われ、ウリヤンハイ三衛に逃げ込んだ。

トゴン全盛時代

この戦いと前後して、1431年頃明朝の支配下にあったトクトア・ブハが明朝の下を離れてモンゴリアに向かい、トゴンによって迎えられた。これより以前、タイピン、バト・ボラトを殺してオイラト唯一の支配者となったトゴンは自らハーンとなることを望んでいたが、「チンギス・カンの子孫以外はハーンとなれない」というチンギス統原理によって周囲の反対に遭い、これを断念せざるを得ない状況にあった。そこでトゴンはやむなくトクトア・ブハを擁立することでモンゴルの部衆の支持を得ようとし、トクトア・ブハは1433年にハーンに即位してタイスン・ハーンと称した[5]

タイスン・ハーンを擁立することで正当性を得たトゴンはアルクタイへの攻勢を強め、まずガハイウルンでのタイスン・ハーンとの戦いに敗れたアルクタイは南下してモナ山(現在のダルハン・ムミンガン連合旗)に逃れたが、そこでトゴンによって攻め滅ぼされた[6]。これによってトゴンはモンゴルの大部分を制圧し、アルクタイの旧領の統治は主にタイスン・ハーンに任せられた。

モンゴリアの統一と晩年

一方、アルクタイに擁立されたアダイ・ハーンはアラシャー地方に逃れており、そこで明朝とオイラトという二大勢力に挟まれつつなお余命を保っていた。しかし正統元年-2年(1436年-1437年)に明・オイラト双方から攻撃を受けて衰退し、正統3年(1438年)にはオイラトの攻撃によって攻め滅ぼされた[7]。『蒙古源流』ではトゴンによるアダイ・ハーンの弑逆を詳しく記しており、トゴンとの戦いに敗れたアダイは「主のオルド(チンギス・カンの四大オルド、現在のエジンホロ旗八白室)」に逃げ込んだが、トゴンはその周りを三度めぐって何度も切りつけたという。これは罪作りな行いだと考えた周囲の者はトゴンを諫めたが、トゴンは諫言を聞かず自らハーンとなることを宣言したが、「主のオルド」を離れたところで天罰によって亡くなった、と記される[8]

アダイ・ハーンの死とともにトゴンが亡くなったのは『蒙古源流』の創作とされるが、ここではチンギス・カンとその子孫たるボルジギン氏を否定することがモンゴル社会では認められないということを表す逸話であると見られる[9]。正統4年(1439年)まではトゴンによる朝貢の記録が残るが、正統5年(1440年)にはその子のエセンが使者を派遣しており、1439年-1440年頃にトゴンは亡くなったと見られる[10]。トゴンの死後、一時的に長男のエセンと次男の間で争いが起こったようであるが、最終的にはエセンがトゴンの地位を受け継いで「タイシ(太師淮王とも)」と称した。

オイラト・チョロース首領の家系

  1. ゴーハイ太尉(Γooqai dayu/太尉浩海)
  2. バトラ丞相/順寧王マフムード(Batula čingsang/順寧王馬哈木、Maḥmūd)
  3. トゴン太師Toγon Tayisi/太師順寧王脱歓、Toγon
  4. エセン太師/エセン・ハーンEsen Qaγan/太師淮王中書右丞相也先、Esen)
  5. オシュ・テムル太師(Öštömöi dar-xan noon/瓦剌太師阿失帖木児、Öštemür)
  6. ケシク・オロク(Kešiq öröq/瓦剌虜酋克失、Kešiq)

関連項目

脚注

  1. ^ 岡田英弘氏は『アルタン・トブチ』ではサムル公主に対する言及が全くないことから、『アルタン・トブチ』の記述がより古い形で、サムル公主に纏わる逸話は他の伝承を組み合わせて作り出されたものではないかと推測している(岡田2010,266)
  2. ^ 和田清氏は「バクム」はトゴンの父の「マフムード」の転訛であって、トゴンの別名をバクムとするのは蒙古源流の誤謬であろうと指摘している。また、ここではトゴンの名前の由来を「鍋(toγan)」としているが、岡田英弘氏はトルコ語でハヤブサを意味する「トガン(toγan)」が語源であろうと述べている(岡田2004,192頁)
  3. ^ 和田1959,218頁
  4. ^ 和田1959,224頁
  5. ^ 和田1959,268-269頁
  6. ^ 井上2002,6頁
  7. ^ 和田1959,233-234頁
  8. ^ 岡田2004,190-191頁
  9. ^ 原田1988,79頁
  10. ^ 和田1959,272頁

参考文献

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 原田理恵「15世紀モンゴルの支配権力の変容」『青山学院大学文学部紀要』30巻、1988年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年

トゴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:20 UTC 版)

モンケセル」の記事における「トゴン」の解説

モンケセル死後その後継いで万人隊長となったが、子供残さず亡くなった

※この「トゴン」の解説は、「モンケセル」の解説の一部です。
「トゴン」を含む「モンケセル」の記事については、「モンケセル」の概要を参照ください。

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