朶顔衛
朶顔衛(兀良哈)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 17:29 UTC 版)
1389年、アジャシュリに率いられて明朝に降伏した集団は明朝より朶顔衛・泰寧衛・福余衛の三衛所に編制され、明朝の人々よりウリヤンハイ三衛(兀良哈三衛)と総称されていた。しかし三衛全体を「ウリャンカイ」と称するのは明側の誤解で、実際にウリャンカイ人によって構成されるのは朶顔衛のみであった。朶顔衛首長の家系はチンギス・ハンに仕えた四駿四狗の一人、ウリャンカイ部のジェルメを始祖としており、モンゴル帝国時代に分かれたウリャンカイ部の一派の末裔であると見られる。 朶顔衛は三衛の中では唯一滅亡を免れて存続し、清朝の支配下に入った。内蒙古六盟の一つ、ジョソト盟に屬するハラチン旗・トゥムド左旗は実際には朶顔衛の後身である。
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