第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争とは? わかりやすく解説

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第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 04:24 UTC 版)

オロチュ」の記事における「第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)」の解説

成化元年(1465年)、ボライ・タイシがモーリハイによって殺されるオロチュはその勢力引き継ぎモーラン・ハーン擁立したモーリハイ一時従った成化2年(1466年)頃のモーリハイオロチュモーラン・ハーン連合勢力は8,9万騎達したという。 しかし同年冬には早くも三者連合瓦解し、モーリハイ・オンはオロチュ明朝出兵している隙を突いてオロチュ本拠地襲撃し、翌成化3年(1467年)までにはオルドス地方からオロチュ勢力追い出してしまった。 オロチュ追放同時にモーラン・ハーン弑逆果たしたモーリハイ・オンは明朝使者派遣して通好求めようとしたが、明朝モーリハイ漠北(現モンゴル国方面)にオロチュオイラト部のオシュ・テムルといった強力な敵対勢力抱えていることを把握しており、モーリハイ要求応えなかった。 果たして翌成化4年(1468年)、モーリハイホルチン部のボルナイによって殺されたものの、ボルナイにもハーン擁立するだけの実力がなく、以後モンゴルは約10年間にわたってハーン空位時代を送ることとなったモーリハイ打倒しボルナイ勢力大凡3つの勢力分裂したものの、それとは別にオロチュ南下して大同附近現れモーリハイ死によって統率者のいなくなったモンゴル南部遊牧地とした。この時オロチュ朶顔衛都督のトゴチと行動を共にしており、その勢力1万であった

※この「第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)」の解説は、「オロチュ」の解説の一部です。
「第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)」を含む「オロチュ」の記事については、「オロチュ」の概要を参照ください。

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