第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)
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「オロチュ」の記事における「第一次オルドス追放/モーリハイ・オンとの抗争(1466-1469)」の解説
成化元年(1465年)、ボライ・タイシがモーリハイによって殺されるとオロチュはその勢力を引き継ぎ、モーラン・ハーンを擁立したモーリハイに一時従った。成化2年(1466年)頃のモーリハイ、オロチュ、モーラン・ハーンの連合勢力は8,9万騎に達したという。 しかし同年冬には早くも三者の連合は瓦解し、モーリハイ・オンはオロチュが明朝に出兵している隙を突いてオロチュの本拠地を襲撃し、翌成化3年(1467年)までにはオルドス地方からオロチュの勢力を追い出してしまった。 オロチュの追放と同時にモーラン・ハーンの弑逆も果たしたモーリハイ・オンは明朝に使者を派遣して通好を求めようとしたが、明朝はモーリハイが漠北(現モンゴル国方面)にオロチュ、オイラト部のオシュ・テムルといった強力な敵対勢力を抱えていることを把握しており、モーリハイの要求に応えなかった。 果たして翌成化4年(1468年)、モーリハイはホルチン部のボルナイによって殺されたものの、ボルナイにもハーンを擁立するだけの実力がなく、以後モンゴルは約10年間にわたってハーン空位時代を送ることとなった。モーリハイを打倒したボルナイの勢力は大凡3つの勢力に分裂したものの、それとは別にオロチュは南下して大同附近に現れ、モーリハイの死によって統率者のいなくなったモンゴル南部を遊牧地とした。この時オロチュは朶顔衛都督のトゴチと行動を共にしており、その勢力は1万騎であった。
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