第一次オニャーテ探検隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 17:48 UTC 版)
「フアン・デ・オニャーテ」の記事における「第一次オニャーテ探検隊」の解説
1601年、オニャーテはグレートプレーンズへの大規模な探検を行った。アステカ人を征服した遠征の時のように、スペイン人兵士130名、フランシスコ会修道士12名、先住民の兵士と従者130名が参加し、350頭の馬とラバを連れて行った。オニャーテはキビラ(英語版)を求めてヌエボ・メヒコから平原を東へと移動した。フランシスコ・バスケス・デ・コロナド同様、オニャーテも現在のテキサス州の回廊地帯にあたる地域でアパッチ族と遭遇した。探検隊はカナディアン川に沿ってさらに東進し、現在のオクラホマ州に入った。砂地で雄牛の牽く荷車が進めなくなったので探検隊は川を後にし、水辺やクルミとオークの木立の数が増し、より緑の濃い地域へと入った。 多分インディオのガイド兼従者のフセペ・グティエレス(英語版)が6年前にウマナ・レイバ探検隊(英語版)が通ったのと同じルートでオニャーテを導いたのだろう。探検隊はオニャーテがエスカンハケ族(英語版)と呼んだ先住民の野営地を発見した。オニャーテはエスカンハケ族の人口を600戸5000人と推定した。エスカンハケ族はなめしたアメリカバイソンの皮で覆われた直径90フィート (27 m)にもなる円形の家に住んでいた。オニャーテによるとかれらは狩猟民族で、農耕を行わず、アメリカバイソンを狩って暮らしていた。 エスカンハケ族はオニャーテに、敵対するラヤド族(英語版)の大きな集落が20マイルほど離れたエツァノア(Etzanoa)という所にあると語った。エスカンハケ族はラヤド族を恐れたためか戦争の準備のために大挙して集まっていたようである。彼らはラヤド族がウマナとレイバの死に関わっていたと言って、火器を持ったスペイン人の協力を得ようとした。 エスカンハケ族はオニャーテを数マイル離れたところにある大きな川に連れて行き、そこでオニャーテはトールグラス・プレーリー(英語版)について初めて記録したヨーロッパ人となった。オニャーテはこれまで通ってきたどこよりも肥沃な土地と「馬が隠れるほどに高く茂る草地がそこら中にある、上等な」牧草地について語っている 。オニャーテはポーポーと思われる果物を食べ、その味が良いことを発見した。 この川のそばでオニャーテとスペイン人と多くのエスカンハケ族のガイドが丘の上にいる3,400人のラヤド族を見た。ラヤド族は探検隊に近づき、戦う準備ができていることの合図として土を空に投げ上げた。オニャーテはすぐに戦う意志のないことを示し、このラヤド族の一団と和平を結び、彼らが友好的で気前が良いことを知った。オニャーテはエスカンハケ族よりもラヤド族を気に入った。彼らは「団結しており、平和的で落ち着いていた」。ラヤド族はカラタシュ(Caratax)という名の酋長を敬っており、オニャーテはカラタシュを捕らえて人質としたが「丁重に扱った」。 カラタスはオニャーテとエスカンハケ族を川向こうの東岸の川から1、2マイル離れた集落に連れていった。住人が逃げた後で、集落は無人だった。そこには「およそ200の家があり、全て大きな川(アーカンザス川)に注ぐもう一つの大きめの川の岸に立っていた....ラヤド族の集落は60年前にコロナドがキビラで見たもののようだった。家々は離れており、家は円形で草葺き、中で10人寝られるほど大きく、畑で穫れたトウモロコシ、豆、カボチャを貯えた大きな貯蔵庫に囲まれていた。」オニャーテは集落を略奪しようとするエスカンハケ族を何とか押しとどめ、彼らを帰らせた。 翌日、オニャーテの探検隊は先住民が居住する地域を8マイル前進したが、ラヤド族には遭遇しなかった。この時点でスペイン人たちの士気は落ちた。近くにラヤド族が多数いるのは明らかで、スペイン人たちはラヤド族が戦士を招集していることを教えられていた。オニャーテはラヤド族と敵対するにはスペイン人兵士300人が必要だと推定し、分別も武勇のうちということで、ヌエボ・メヒコへの帰途についた。 オニャーテはラヤド族の襲撃を恐れていたが、ヌエボ・メヒコに帰還を始めた探検隊を襲ったのはエスカンハケ族だった。オニャーテは1500人のエスカンハケ族との激しい戦闘を記録しているが、これはたぶん誇張であろう。戦闘は2時間以上に及び、多くのスペイン人が負傷し、多くの先住民が死んだ。襲撃の後でラヤド族の酋長カラタシュが解放され、オニャーテは女性の虜囚数名を解放したが、少年の虜囚数人は、神父たちが彼らをカトリック教会の信仰に教化できるよう要求したためそのまま連れて行った。襲撃の原因はオニャーテが女性や子供を拉致したためかも知れない。オニャーテと部下たちはその後は大した出来事もなく1601年11月24日にヌエボ・メヒコに帰還した。 オニャーテの探検隊の道程と、エスカンハケ族とラヤド族が何者であったかについては論争の的となっている。専門家のほとんどが、探検隊がテキサスからオクラホマまでカナディアン川に沿って進み、そこからは川を離れ、ソルトフォークアーカンザス川(英語版)に着いたところでエスカンハケ族の野営地を発見し、アーカンザス川に沿って進み、その支流ウォールナット川(英語版)沿いの、現在のカンザス州アーカンザスシティ(英語版)にあたる地点にラヤド族の集落があったと信じている。一つの少数意見では、エスカンハケ族の野営地はニネスカ川(英語版)にあり、ラヤド族の村は現在のウィチタにあったとする。考古学的証拠はウォールナット川説を支持している。 エスカンハケ族はアパッチ族、トンカワ族(英語版)、ジュマノ族(英語版)、カポー族(英語版)、コー族(英語版)だったなどと様々に推測されてきた。最も有力な説はウィチタ方言を話すカドー語族(英語版)である。ラヤド族がウィチタ族だということはほぼ確実である。草葺きの家、分散した集落、ウィチタ語の呼称と同じカラタシュという名の酋長、貯蔵庫の様子、そして彼らのいた場所は全てコロナドの記録したキビラ人と合致する。しかし、ラヤド族はたぶんコロナドが出会った人々とは違う。コロナドはオニャーテがラヤド族と出会った場所から120マイル北でキビラを発見した。ラヤド族は北にあるタンコアという大集落のことをオニャーテに語ったので、それがキビラの本当の名かも知れない 。このように、ラヤド族は文化的かつ言語学的にキビラ族と関係があるが、同じ共同体に属してはいないと思われる。当時のウィチタ族は統一されておらず、複数の部族が現在のカンザスとオクラホマにあたる土地のほとんどに分散して暮らしていた。ラヤド族とエスカンハケ族が同じ言語を話しながら敵対していたのも不思議ではない。
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