第一次ウクライナ・ソビエト戦争
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「第一次ウクライナ・ソビエト戦争」の解説
詳細は「ウクライナ・ソビエト戦争」を参照 1917年12月13日には、ニョーミツ提督は一時的に艦隊司令官の任を M・P・サーブリン提督に譲った。その後、艦船は次々にボリシェヴィキの赤色黒海艦隊に吸収されていった。同年12月16日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」も赤色黒海艦隊に編入された。 一方、12月22日には、ウクライナ総書記局(ウクライナ語版)の海事総書記局がされ、翌月には「ウクライナ人民共和国海軍に関する臨時法」が中央ラーダによって採択された。 1918年1月9日には第四次ウニヴェルサール(ウクライナ語版)によってウクライナ人民共和国の完全な独立が宣言されたが、ボリシェヴィキの指導する労農赤軍はウクライナ人民共和国軍に対してウクライナ各地で連戦し、1918年1月27日にはウクライナ人民共和国の首都キエフを奪取、ウクライナ中央ラーダはジトーミルへ落ち延びた。しかし、同日に締結されたブレスト=リトフスク条約締結により、軍事同盟を結んだウクライナ人民共和国と中央同盟国は反攻に転じた。赤軍は次々と撃破され、各地で撤退を余儀なくされた。その頃、「パーミャチ・メルクーリヤ」は戦列艦「シノープ」、「ロスチスラフ」、「トリー・スヴャチーチェリャ」、通報船「アルマース」、掃海船と輸送船を含む多数の補助船舶とともに、赤軍支援のためオデッサに停泊していた。オデッサ市投錨地に艦隊が存在することで、ルーマニアの軍部隊と戦うルムチェロード(ロシア語版)はしばらくのあいだ敵の熾烈な攻勢を持ちこたえることができた。いよいよドイツ帝国軍が接近すると、3月13日から3月14日にかけて黒海艦隊の艦船はオデッサを逃れ、一部はセヴァストーポリへ、また別の一部はフェオドーシヤへ向かった。「パーミャチ・メルクーリヤ」はセヴァストーポリへ逃れたが、クリミアからの完全撤収作業を進める赤軍によって3月28日にはセヴァストーポリ軍港で保管状態に入れられた。 4月29日には、セヴァストーポリはウクライナ人民共和国とドイツ帝国の同盟軍の攻勢の下に晒されていた。黒海艦隊司令官 M・P・サーブリン提督は戦列艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」に命じて全艦隊に「ウクライナ国旗を掲げよ」という命令を発した。戦列艦「ヴォーリャ」と「スヴォボードナヤ・ロシア」はこの命にすぐに従い、他艦も一部を除いてこれに倣った。サーブリン司令官はシンフェローポリへ代表団を送り、ウクライナならびにドイツ司令部に対しても、黒海艦隊はウクライナ国旗の下にあり、セヴァストーポリへの侵攻をやめて代表団を派遣されたしとする電信を打った。その後、サーブリン司令官はどうしてもウクライナ国旗の掲揚を拒否する艦隊水雷艇に対し港外退去を命じた。これに従い 14 隻の艦隊水雷艇ほか若干の輸送船が退去した時点で、セヴァストーポリに残る全艦船がウクライナ国旗を掲揚した状態となった。 ところが、5月1日の時点でまだドイツ軍は侵攻をやめなかった。ドイツ軍は、ウクライナ軍部隊をペレコープに留めて単独でクリミアへの侵攻を開始した。シンフェローポリに駐留するドイツ軍司令官ローベルト・コーシュ(ドイツ語版)将軍はサーブリン司令官の送った代表団の申し入れを取り上げず、ウクライナ方面の最高責任者であるヘルマン・フォン・アイヒホルン元帥に申告するよう依頼した。アイヒホルン元帥はキエフに滞在しており、当時の通信状況では事実上、ドイツ軍のクリミア侵攻を止めることが不可能であることがこの時点で明らかになった。 黒海艦隊代表団とともに、セヴァストーポリ市の代表団とウクライナ人組織の代表団がシンフェローポリに派遣された。そして、コーシュ将軍は前者に対しては慇懃にもてなしたのに対し、後者に対しては冷淡に接した。この情報が齎されたとき、サーブリン司令官は黒海艦隊のクリミア撤退を決意した。サーブリン司令官は艦隊に出港準備を命じるとともに、居残る艦船については爆破するよう、オストログラーツキイ海軍少将に命じた。しかし、艦隊は混乱に陥って準備に手間取り、出港の時期を逃してしまった。幾人もの士官らを残したまま、戦列艦「ヴォーリャ」と「スヴォボードナヤ・ロシア」以下、若干の艦船だけが敵の砲弾の下、ノヴォロシースクへ向けて出港するのに成功した。 一方、セヴァストーポリに留まった艦船については、艦船ならびに港湾設備の爆破班が逃亡してしまったために、艦隊水雷艇「ザヴェートヌイ」以外は結局爆破されないままに残った。ほかの艦船には再びウクライナ国旗が掲揚され、オストログラーツキイ海軍少将の指揮の下、ウクライナ政府とドイツ軍司令部に対して、ウクライナ化を拒否した艦船は外海へ退去した、残る艦船はすべてウクライナ国旗を掲揚し、セヴァストーポリに留まった、と知らせた。
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