第一次ウィーン裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:36 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の記事における「第一次ウィーン裁定」の解説
詳細は「ウィーン裁定#第一次ウィーン裁定」を参照 ポーランドは協定に応じ、テッシェンを人民投票によって獲得したが、ハンガリーは応じなかった。ハンガリーはチェコスロバキアへの侵攻をほのめかしたが、ミュンヘンで英仏に見捨てられたチェコスロバキアがすがる相手はもはやドイツしかなかった。チェコスロバキアとハンガリーはドイツとイタリアの裁定に従うと声明した。11月2日、ウィーンでスロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部のハンガリーへの割譲が決定された。 しかし、領域を分断されることになるスロバキアとカルパティア・ルテニアでは民族運動がさらに激化し、11月9日、スロバキアではヨゼフ・ティソ、カルパティア・ルテニアではアウグスティン・ヴォロシン(英語版)を首班とする自治政府が成立した。このためハンガリーへの割譲は実行されず、ハンガリー側にも不満が募った。
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