スロバキア独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:08 UTC 版)
1938年9月、ナチス・ドイツのズデーテン地方要求に端を発したズデーテン危機が発生し、チェコスロバキアは大きな動乱に見舞われた。『民族自決』の名の下にチェコスロバキア国内では各民族の分離独立運動が高まった。 9月22日、ハンガリー王国はマジャル人の多く住む、ハンガリーの旧領であるスロバキアとカルパティア・ルテニアの割譲をチェコスロバキア政府に要求したため、スロバキアの民族運動は激化した。ミュンヘン協定の結果、スロバキアの帰属は国際委員会の裁定と人民投票によって決まることになったが、ハンガリーはこれを不服として軍の動員を行った。 シロヴィー内閣はティソをスロバキア担当相として閣内に迎えたが、スロバキアの民族運動は激しさを増し、10月6日にはスロバキア自治政府が成立を宣言し、ティソは自治政府首班に就任した。10月にはスロバキア人民党の正式な党首に就任している。11月8日、ハンガリーの領土要求を解決するため、ウィーンにおいてドイツとイタリアによる第一次ウィーン裁定が行われ、南部スロバキアと南部カルパティア・ルテニアの割譲が決定された。スロバキアはこれに大きく反発して独立運動が活発になり、共産党を除くスロバキアの全政党はスロバキア人民党に合流し、ティソはその党首となった。11月26日、チェコスロバキア政府はスロバキアの自治を認めたが、11月28日にティソはスロバキア担当相を辞職、チェコスロバキア政府から離れた。 1939年1月、チェコスロバキア国内におけるスロバキアとカルパティア・ルテニアの独立運動はより激化した。これに手を焼いたチェコスロバキア政府はヒトラーに支援要請を行ったが、ドイツ側の要求は過酷を極めたため受諾できなかった。進退窮まったチェコスロバキア政府は独立運動の弾圧を決し、1939年3月6日にカルパティア・ルテニア、3月9日にスロバキアの自治政府罷免を発表した。10日にはティソをはじめとするスロバキア自治政府要人は逮捕・軟禁され、スロバキア国内に戒厳令が敷かれた。しかしこの措置はドイツの介入を招くことになり、ティソはドイツの支援の元に脱出し、3月13日にはベルリンに招かれた。ヒトラーはティソにスロバキア独立を宣言することを強要し、行わなかった場合にはドイツ軍が介入すると通告した。ティソはドイツが用意した独立宣言案とドイツに対する保護国要請を携えてスロバキアの首都ブラチスラヴァに戻った。 3月14日、ブラチスラヴァでスロバキア議会が開かれ、ティソとヒトラーの会談録を討議した上で「スロバキア共和国」の独立を宣言した。ティソは議会によって首相に選出されている。同日カルパティア・ルテニアも独立を宣言してカルパト・ウクライナ共和国となり、残ったチェコも15日にはドイツに併合されてベーメン・メーレン保護領となり、チェコスロバキアは消滅した。しかしスロバキアは実質的にはドイツの傀儡政権であり、独自の政治指導を行うことはできなかった。ハンガリーはあくまで旧領復活を求め、3月17日にカルパト・ウクライナ共和国を併合、3月23日にはスロバキアに侵攻した(スロバキア・ハンガリー戦争。en:Slovak–Hungarian War)。独立したばかりのスロバキアはこれに対抗したが、同日にはドイツとの保護条約が成立しており、ドイツが仲介に入った。ドイツの裁定により、ウィーン裁定の国境線が確定することになり、スロバキアはハンガリーに南部スロバキアを割譲することを余儀なくされた。10月26日にティソはスロバキアの初代大統領に就任している。
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