逮捕・軟禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)
1936年12月23日にいったん和解が成立したが、2日後の12月25日に反逆罪により逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。西安事件は蔣介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。胡適は張にあてて電報を発している。胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難である事、もし蔣介石に不幸があれば中国は20年あと戻りする事になるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蔣介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張は“国家と民族の罪人”であると胡適は厳しい語気で張に警告している。しかし張は極刑もしくは国民党から永久除名にされず、12月31日、軍事委員会高等軍法会議(裁判長:李烈鈞、判事:鹿鍾麟、朱培徳)により懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蔣介石の寛大さと張は述べている。しかし、同じく監禁された西北軍司令官の楊虎城将軍はのちに銃殺された。 1937年1月4日に特赦を受けたが、そのまま軟禁状態に置かれた。その後、日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた。監視は憲兵や藍衣社系の諜報機関である軍事統計局(軍統)特務員によって行われた。裁判後は市内の孔祥熙公館に、次に奉化県雪竇山の「中国旅行社(中国語版)招待所」に軟禁された。しかし、招待所が10月に火事で焼失したため、段祺瑞の別荘として建てられた黄山の居士林と呼ばれる屋敷に移された。だが東北軍の一部が安徽省に駐留していたため、奪還を恐れた蔣介石の指示によりわずか2日で離れることとなり、南昌の宿で一泊したのち11月21日に萍郷の贛西飯店に移された。特務員や憲兵も客を装って両隣の部屋に居住する措置が取られたものの、流石に民間人の目につく恐れがあったため、29日に専員公署の近くにある武漢大学教授の肖君絳の邸宅で「絳園」と呼ばれる屋敷に移された。ここで1か月ほど過ごしたのち、1938年1月、湖南省郴州蘇仙嶺(中国語版)を経て3月に湘西沅陵の鳳凰山に移された。1939年11月下旬、日本軍が湖南省まで攻めてきたため、貴州省修文県陽明洞(中国語版)に移される。
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