一揆の発生
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検地に対して不満を抱いた大崎氏、葛西氏、胆沢郡の柏山氏ら没落大名の旧臣、農民らが、奥州仕置軍が帰るや10月に一揆を結んで各地で蜂起し、木村吉清ら秀吉の派遣武将を討ち、勢いを振るった。この時、和賀郡や稗貫郡でもこの騒動(葛西大崎一揆)に協調して和賀義忠、稗貫広忠らが蜂起した。 一揆勢は、10月23日(または10月28日)和賀氏の元居城であった二子城(現在の岩手県北上市二子町)の浅野長政代官・後藤半七を急襲して攻略し、和賀氏の旧領を奪回した。その勢いで鳥谷ヶ崎城を2千余名が包囲した。一揆勢2千は少し前まで現役の士卒で土民の一揆よりはるかに戦慣れしており、それに対し鳥谷ヶ崎城代官・浅野重吉の城兵はわずか100騎と足軽150人ほどしかいなかったが、城が天然の要害の地にありなかなか落城しなかった。 秀吉から北奥に領地を安堵されていた南部信直は不来方城(後の盛岡城)に軍勢を集結させて、自らが500騎ほど引き連れて鳥谷ヶ崎城へ救援に駆け付け11月7日城を包囲している一揆勢に攻撃をしかけ囲みを解いた。南部軍は鳥谷ヶ崎に一旦入城したが積雪期が近づき、冬に城を護り通すのは困難であると判断、城を捨てて浅野重吉らを連れ南部氏居城の三戸城に撤退した。結果、鳥谷ヶ崎城含め稗貫氏の旧領も一揆勢の手に渡った。 こうして豊臣政権が奥羽に派遣した郡代、代官は悉く、旧領主の軍勢によって駆逐された。
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一揆の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 01:26 UTC 版)
9月下旬ころ、検地もひとまず終了し、上杉景勝がそろそろ越後へ帰国しようかという段になって仙北地方と由利地方に検地反対の一揆が勃発した。仙北では諸給人・百姓らが仕置に反対しての蜂起であった。一揆勢力は各所に放火し、増田(横手市増田町)・山田(湯沢市山田)・川連(湯沢市川連町)の古城に2万4,000名余が籠もった。一揆発生の報せを聞いた景勝は、増田を攻撃したのに対し、一揆勢は山田・川連の両城から援兵を出し、防戦に努めた。上杉勢は2,000余の軍兵を川連城付近まで極秘裏に進軍させ、陣貝を合図にして一挙にせめて一揆勢を破った。これにより、川連・山田に籠城した一揆衆が降伏し、一揆はいったん平定された。一揆勃発の背景としては、上述の豊臣政権の土地政策に対し、在地領主の先行き不安感、検地によって一地一作人となって土地支配権や年貢徴収権が失われることへの不満、隠田・焼畑などの摘発にともなって、これらの耕地が課税の対象となったことに対する反感なども考えられる。 10月、横手盆地中部の六郷(仙北郡美郷町六郷)において、大谷吉継配下の者が検地の縄を入れた際、百姓たちがしきりに訴訟し、検地を妨害するので大谷衆はその場で3名を見せしめのため斬殺し、5名を捕縛した。それに対し、怒りと怨嗟にかられて蜂起した農民が吉継の家臣を殺害、その数は50名から60名に達した。これを契機に一揆が再燃、仙北各地で蜂起した。10月14日、大谷勢を大森にのこし、上杉景勝およびその旗本1万2,000騎が出動して、鍋倉四郎(現在の横手市平鹿町地区を本拠とする)以下2,000余名の籠もる増田の館を攻撃した。一揆衆は上浦郡各地から集まって上杉軍を包囲したが、上杉勢は浅舞、柳田(いずれも横手市)、川連、山田など一揆の拠点を攻略し、一揆衆の首1,580を討ち取ったといわれる。上杉方も討死200余、負傷500余の被害が生じる激しい戦闘となった。このとき、中郡の本堂氏は大谷に従軍して一揆討伐に加わり、由利衆も一揆討伐に加勢した。押収した武器はことごとく大森城に納められた。増田館を請け取ったのは上杉家臣藤田信吉であり、一揆衆からの人質は翌年3月まで色部長真・佐藤甚助の駐在する大森城に留め置かれた。
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一揆の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 17:21 UTC 版)
11月8日、まず午前中に突撃隊員に来るべき行動への待機命令が出され、夜になると隊員たちはそれぞれの集合地点からトラックに分乗してビュルガーブロイケラーに集まりだした。午後8時ヒトラーが到着し入場。仲間とビールを飲みながら待機していた。会場には125名の警官や騎馬警官による警備が行われていたが、武装した突撃隊員の脅しにほとんど抵抗らしい抵抗もなく立ち去った。 午後8時30分、カールが演説をしていた時、ヘルマン・ゲーリング率いる突撃隊員がなだれ込んだ。同時にホールに待機していたヒトラーはルドルフ・ヘスらの部下を引き連れて演壇に進もうとし、ホール内は大混乱になった。ヒトラーはブローニング拳銃を上に向かって発砲し「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」と叫んだ。そして三人の首脳(カール、ロッソウ、ザイサー)に生命の保証を約束し、ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限委譲と、ベルリン進撃に協力することを依頼した。ヒトラーはカールに州摂政、ザイサーに警察大臣、ロッソウに国防大臣のポストを提示し、ペーナーが州首相、ルーデンドルフが国民軍司令官、そして自身が政府を組織するという構想を告げた。しかしカールら三人の首脳はヒトラーらの説得に応じなかったため、ショイブナー=リヒターにルーデンドルフを呼びに行かせた。 ホール内では突撃隊と群衆との小競り合いが続いていた。ゲーリングが「諸君!心配するな。ビールがあるじゃないか。」とジョークを飛ばし、ヒトラーは機関銃を据え付けるぞと脅したりした。そのうちヒトラーの雄弁に群衆は鎮まり、やがて彼を支持するようになった。ヒトラーはホールから戻ると、駆け付けたエーリヒ・ルーデンドルフと会見した。ルーデンドルフは自分に無断で蜂起が行われたことに激怒していたが、今は蜂起を成功させることが必要であると考えていた。その後、彼の説得により、ようやく三人は協力すると言明した。ヒトラーとともに三人が演壇に立つと、聴衆によるドイツ国歌の大合唱がホール内に響き、この時点では反乱は成功したものと思えた。集会に参加していたクニリング州首相をはじめとする閣僚の大半も逮捕・軟禁された。同時に市内でもエルンスト・レーム率いる突撃隊が市役所やバイエルン国防軍司令部などを占拠し、バリケードを築いていた。しかしレームは通信施設を抑えようとせず、反一揆派の連絡を見逃した。 ルーデンドルフは自らの国防軍や少将であるロッソウに対する影響力に自信を持っていた。しかし、三人の首脳はビアホールで恥をかかされたことを恨みに思っており、また国防軍総司令官ゼークト上級大将はルーデンドルフやヒトラーを信用しておらず、一揆直前には彼らを排除するようカールに親書を送っているなど、すでに現役を退いたルーデンドルフの影響はほとんど及ばなかった。
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