一揆直前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
10月11日(11月13日)、市野等見分役人が野洲郡三上村に入り、市野等は大庄屋大谷治太郎宅を本陣とし、一行は近隣の宝泉寺・庄屋粂川家その他に分宿し、本陣の前には三上藩の陣屋があった。市野一行は三上村で近江入国以来9ヶ月に及ぶ見分を行っていたため休憩を取りつつ、今後の見分予定地である野洲川上流甲賀郡についての情報収集を三上藩郡奉行平野八右衛門などから行っていた。 暫く市野一行が野洲郡から甲賀郡への入り口である三上村に留まったことから、甲賀郡庄屋田島治兵衛と黄瀬文吉は土川平兵衛に使者を派遣し野洲郡・栗太郡の状況を確認しようとしたところ、10月13日(11月15日)土川平兵衛より好機到来として田島治兵衛と黄瀬文吉に『野洲・栗太郡は15日を期し、かねての打ち合わせ通り野洲川原に集結する。甲賀では今さら何をためらって当地の動静を気遣っているのか、急ぎ動員の廻状を手配されたい。』との書状を使者に託した。治兵衛・文吉は早速藤田宗兵衛と蜂起の懇談を行い、関係各村に対し廻状を出状した。 廻状には『一.此度川筋・山辺等に至るまで御見分に付き、村々残らず矢川社へ罷り出で申すべく候様、即ち一昨夜より罷り出で、今十五日夜本揃に候間、残らず出立致し申さるべく候、不参の有るにおいては、其村へ押し寄せ打ち壊し申すべく候者也。』と記されていた。矢川神社(現甲賀市甲南町森尻)は中世来甲賀郷士が評議のため参会した場所で、同所と水口宿郊外より三上に向かう途中にある横田河原(現甲賀市水口町泉。横田川は野洲川のことで、横田渡しは幕府により定められた東海道十三渡しの一つ)が集合地として指定された。 廻状が廻された事を察知した水口藩は、横田河原に隣接する泉村(現甲賀市水口町)に逐一河原の様子を知らせるよう指示すると共に農民集結に備えた。
※この「一揆直前」の解説は、「近江天保一揆」の解説の一部です。
「一揆直前」を含む「近江天保一揆」の記事については、「近江天保一揆」の概要を参照ください。
- 一揆直前のページへのリンク