一揆発生の背景とは? わかりやすく解説

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一揆発生の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/18 07:41 UTC 版)

額田郡一揆」の記事における「一揆発生の背景」の解説

今川記』はこの一揆大将分たちを吉良氏の元被官とみているが、このことに関連する事実として、嘉吉元年1441年)には東条家当主吉良持助出奔する事件発生している(『建内記嘉吉元年六月二三日条)。かつて関東における永享の乱敗死した鎌倉公方足利持氏遺児王丸安王丸を奉じて結城氏朝起こした永享12年1440年)の結城合戦において、三河国内で東条家がこれらの反幕府勢力内通していたためとされる結城合戦にも生き延びた持氏の末子・成氏への討伐について、長禄2年1458年)にはその吉良持助意見書提出している(「下吉良殿、依関東出陣之事、以状被白也」『蔭涼軒日録長禄二年一二二日条)。 一方、新行紀一は『新編 岡崎市史 -中世2』において額田郡一揆主要構成員幕府奉公衆または下級将軍家被官たちとし、対立する堀越公方足利政知加担する今川義忠後方攪乱企図して、成氏が額田郡のこれら奉公衆蜂起させたとしている。また、所理喜夫の『徳川将軍権力構造』の所論によれば奉書見られる牢人交名ろうにんきょうみょう)」という表現から、一揆首謀者たちは一揆発生時点ではとくに被官関係を持っていなかった国人地侍層が起こした国人一揆とする。 これらの説に対して更に平野明夫は、将軍家意向により、持氏の残党を匿った疑い三河守一色義貫追放され阿波細川氏新守護に就任させるその過程で、同国内に生じていた軋轢利害絡んで不満を持った武士達を斯波義廉や成氏が反伊勢氏勢力として結集蜂起させたとみる(平野伊勢貞親蔭涼軒季瓊真蘂寛正5年1464年)に斯波義敏と結び、翌6年にその義敏が上洛すると、成氏と利害一致する斯波義廉10月より本格的対抗始めたとする家永遵嗣の説を挙げて額田郡一揆はその対抗策一つであったとする)。

※この「一揆発生の背景」の解説は、「額田郡一揆」の解説の一部です。
「一揆発生の背景」を含む「額田郡一揆」の記事については、「額田郡一揆」の概要を参照ください。

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