一揆発生の背景
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『今川記』はこの一揆の大将分たちを吉良氏の元被官とみているが、このことに関連する事実として、嘉吉元年(1441年)には東条家当主の吉良持助が出奔する事件が発生している(『建内記』嘉吉元年六月二三日条)。かつて関東における永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて結城氏朝が起こした永享12年(1440年)の結城合戦において、三河国内で東条家がこれらの反幕府勢力と内通していたためとされる。結城合戦にも生き延びた持氏の末子・成氏への討伐について、長禄2年(1458年)にはその吉良持助が意見書を提出している(「下吉良殿、依関東出陣之事、以状被白也」『蔭涼軒日録』長禄二年一二月二日条)。 一方、新行紀一は『新編 岡崎市史 -中世2』において額田郡一揆の主要構成員は幕府奉公衆または下級の将軍家被官たちとし、対立する堀越公方足利政知に加担する今川義忠の後方攪乱を企図して、成氏が額田郡のこれら奉公衆を蜂起させたとしている。また、所理喜夫の『徳川将軍権力の構造』の所論によれば奉書に見られる「牢人交名(ろうにんきょうみょう)」という表現から、一揆の首謀者たちは一揆発生時点ではとくに被官関係を持っていなかった国人・地侍層が起こした国人一揆とする。 これらの説に対して更に平野明夫は、将軍家の意向により、持氏の残党を匿った疑いで三河守護一色義貫が追放され、阿波細川氏を新守護に就任させるその過程で、同国内に生じていた軋轢や利害に絡んで不満を持った武士達を斯波義廉や成氏が反伊勢氏勢力として結集・蜂起させたとみる(平野は伊勢貞親と蔭涼軒主季瓊真蘂が寛正5年(1464年)に斯波義敏と結び、翌6年にその義敏が上洛すると、成氏と利害の一致する斯波義廉が10月より本格的対抗を始めたとする家永遵嗣の説を挙げて、額田郡一揆はその対抗策の一つであったとする)。
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