一揆参加者への取調べ
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「近江天保一揆」の記事における「一揆参加者への取調べ」の解説
甲賀郡では京都町奉行所役人が水口宿の旅籠桝屋に本拠を置き、10月22日(11月24日)市原村庄屋田島治兵衛、杣中村庄屋庄屋黄瀬文吉・黄瀬平兵衛等8名など10余名を捕縛し、翌23日(同月25日)には岩根村庄屋藤谷弥八など80余名を捕縛した。野洲郡・栗太郡では守山宿脇本陣辻八兵衛方を本拠とし、三上村庄屋土川平兵衛・大篠原村庄屋小沢甚七・戸田村庄屋鵜飼彦四郎・小篠原村庄屋苗村安右衛門・同沢口丈助・行合村庄屋小谷忠衛門他20余名が捕縛された。捕縛者は京都二条獄舎に送られ昼夜拷問と虐待の日々を送ることになった。 関源之進・戸田嘉十郎他3名が大津代官所に着任後の12月16日(1943年1月16日)、捕縛者は大津代官所に移送された。幕府は関等の派遣にあたり農民が騒いだ時は鉄砲で撃ち殺せとまで申し渡していた。大津においても鞭打ち・海老責・算盤責・木馬責・釣責などあらゆる拷問が加えられた。木馬責めになった兵助という百姓は「一揆の首謀者の名前を言え」と責められたが、頑強に口をつぐんでいたため、銅で作った木馬に両手を縛られて乗せられ、両足に重石を下げて火であぶられた。銅製の馬が熱せられると兵助は苦悶し、身をよじって呻吟するのを見た役人は「それ、馬を走らせろ。もっと走らせろ」と嘲笑した。兵助は下半身に重度の火傷を負い、牢に下げられた夜に死亡した。尻から両腿にかえて焼け爛れ、肉は腐って黒く縮んでいた。天保14年1月(1943年2月)には野洲郡・栗太郡・甲賀郡・仁保川筋の500余村に対して宗門人別帳を提出させ、各村より庄屋1名・年寄り1名・百姓3名を召還し、数万人を超える農民が尋問を受け、千余人の一揆参加者が捕縛された。千余人の入牢者を抱えた大津代官所では牢獄が足りず急遽牢を増築したが、獄中で絶命した者が続出し、記録されているだけで40余名が獄死した。獄舎の上に毎夜、白い湯気が立ち上り、夜になると得体の知れぬ泣き声が空中に満ちたという。参考人として出頭を命じられただけで、牢入りを免れた者も三畳の部屋に4,5人ずつ手鎖をかけられて放り込まれたため、苦痛は甚だしかった。 入牢者に対する拷問の凄まじさは獄舎から聞こえる呻きや尋問だけで終わった召喚者の話から伝わり、関係各村の神社では除災安全の祈願や捕縛者延命の祈りが捧げられた。『山村十郎右衛門日記』では水口藩領関係者の除災を7日間に亘り平松村(現湖南市)の天台宗美松山南照寺で祈祷が行われたことを記録している。また、仁孝天皇は凄惨な拷問の事情を憂慮し比叡山延暦寺に下命され安全祈祷の護摩修法を厳修させた。仁孝天皇ご自身も近江の湖東湖南域に領地を持つ宮門跡や公卿から、一揆及びその後の状況を耳にされていたと思われる。 天保14年2月末(1843年3月末)、大津代官所での拷問責による取調べは一応の決着がつき、その罪状を凡そ確定して幕府へ報告しその裁断を待った。その結果、江戸送りの者を除き、甲賀郡では岩根村庄屋谷口庄内・久右衛門、花園村岩次郎、泉村長蔵、氏川原村庄左衛門、石部宿の三五郎・岩吉、野洲郡では戸田村庄屋鵜飼彦四郎、小篠原村庄屋苗村安右衛門・同沢口丈助、行合村庄屋小谷忠衛門などは引き続き留置処分とし、その他入牢者は一時出牢帰村させ江戸の沙汰を待たせることとした。江戸送りは12名と決まったが、杉谷村庄屋西浦九兵衛は江戸送り出立直前の2月24日(3月24日)獄死したため、11名が江戸送りとなった。 甲賀郡獄死者(名前が伝えられている獄死者は33名) (現甲賀市甲賀町) 油日村:山下豊松、瀬古源七 上野村:清蔵 大原上田村:豊次郎 須山村:源助、清蔵 和田村:利平治、吉弥 神村:易蔵 (現甲賀市水口町) 牛飼村:丈右衛門 氏川原村:市之丞 宇田村:金七、忠兵衛、彦次郎、金兵衛、宗三郎 北貫内村:久右衛門 酒人村:市右衛門、金三郎 新城村:吉郎兵衛 杣中村:黄瀬文吉、黄瀬平兵衛、栄蔵、甚兵衛、栄吉、茂兵衛 西内貫村:吉右衛門 伴中山村:伝三郎 水口宿:八郎兵衛 (現甲賀市甲南町) 市原村:政右衛門 上馬杉村:幸助 下磯尾村:正道(山伏) 杉谷村:西浦九兵衛 (現湖南市) 岩根村:八右衛門 花園村:作左衛門、清左衛門 野洲郡獄死者(野洲郡・栗太郡資料は乏しく獄死者として僅か2名名前が伝えられるに留まる) (現野洲市) 大篠原村:小沢甚七 野洲村:坂口重蔵
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