一揆勢主要構成員の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/18 07:41 UTC 版)
「額田郡一揆」の記事における「一揆勢主要構成員の出自」の解説
大場(大庭)氏 :正慶元年(1332年)に大場朝泰という人物が深溝に移住してきたという日蓮宗・長満寺の縁起や観応元年(1350年)の『額田郡一揆交名』に「大庭弥平太氏景」とその名が見出される。また、『太平記』(巻28)にも大庭氏は観応の擾乱以前には当時の三河守護・足利高氏の被官として現れるので、寛正の一揆の大場氏もその子孫と推定され、また足利氏下級被官衆として深溝城中心に存在したと考えられる。 梁田氏 :梁田氏も観応元年(1350年)の『額田郡一揆交名』に「梁田平太資国」と名が見え、梁田左京亮某もその子孫とされる。下野国足利荘梁田郷を本貫とする足利氏被官衆・梁田氏で鎌倉公方衆を務めた一族のうち、三河国に所領を受けた庶家と推定されている。 丸山氏 :室町幕府の『文安番帳』・『永享番帳』に「丸山孫三郎」、『康正引付』の「丸山 掃部助」の名が見える。『三河国二葉松』には現在の岡崎市丸山町にある城跡が「丸山中務」のものと記されており、丸山氏はここを本拠とする幕府奉公衆であると考えられている。 高力氏 :高力氏は梁田氏の同族という。足利尊氏の家臣・熊谷直鎮を祖とする宇利熊谷氏の末裔・熊谷正直が初め梁田氏を称したが、後に西三河の高力郷に移住し、その子・重長に至り高力を称し、またその母は梁田与次郎某の娘と伝わる(『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』)。 芦谷氏 :深溝城と高力郷の間に位置する芦谷郷は『康正引付』に「天花寺領」とされ、芦谷氏はその代官であったとみられる。この芦谷に居住したという芦谷助三郎兄弟はその地の小領主の子孫らしい。 尾尻氏 :尾尻某父子は近世まで存在した尾尻村の当時の領主であり、その先祖は時期が不明であるが関東から三河に所領を受けた足利氏被官衆の一つと推定されている。
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