近世まで(-1868)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 02:55 UTC 版)
白塚の地名が文献で確認できるのは、南北朝時代のことである。応安元年(1368年)の『栗真荘内熊野田三町沙汰日記』に兵衛殿という白塚の人が窪田郡内の熊野社領の作人であるという記録がある。また白塚町内に小字「九門久」(くもんきゅう)があり、公文の給田を意味すると推察される。このように白塚は中世に荘園支配を受けていたと考えられるが、詳細は不明である。時代は下り、永享5年3月22日(ユリウス暦:1433年4月12日)に伊勢参宮の帰路、安濃津から豊久野(現・芸濃町椋本)へ向かう途中で「しらつかの松」を見た尭孝は次のような短歌を詠んでいる。 「 霞立 緑の末と ひとつにて 明行空の しらつかのまつ 」 室町時代後期に、白塚は港として発達し、文明12年(1480年)には長野氏方の賀藤氏が新警固を白塚と志摩国の泊・大里(現・鳥羽市鳥羽)に設置した。これに対して伊勢神宮は廃止を求めたが、分部氏も若松(現・鈴鹿市若松地区)に新警固を置こうとしたため、内宮禰宜の荒木田氏経は長野氏に対して強い抗議を行ったという。なお、賀藤氏と関係すると見られる加藤姓を名乗る家庭が現代の白塚町でも多く存在する。 江戸時代には伊勢国奄芸郡白塚村であり、当初は伊勢上野藩の配下にあったが、慶長18年(1613年)に伊勢上野藩と津藩の相給となり、元和5年(1619年)から紀州藩と津藩の相給となった。紀州藩側は白子領大部田組、津藩側は平野組に組み入れた。白塚村は沿岸漁業と後背湿地での農業を生業とし、村高は『元禄郷帳』では639石余、『天保郷帳』と『旧高旧領取調帳』では826石余であった。 江戸時代には地引網による漁業が行われており、隣村の町屋村と論争を繰り広げた。また夫役として徳川家の御座船の水主割を課されていた。文化面では、嘉永年間(1848年 - 1854年)頃に村内の薬師寺の僧侶が寺子屋を開設している。
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