藤原氏
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| 藤原氏 | |
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| 下がり藤(代表的な家紋) ※ 各、藤原氏によって異なる。 |
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| 氏姓 | 藤原朝臣 |
| 始祖 | 天児屋命 |
| 出自 | 中臣氏 |
| 氏祖 | 藤原鎌足 |
| 種別 | 神別(天神) |
| 本貫 | 大和国高市郡藤原 |
| 著名な人物 | その他は藤原氏の人物一覧参照 |
| 後裔 | 記上藤原不比等の子、4家以後については、各家項目を参照 |
| 凡例 / Category:氏 | |
藤原氏(ふじわらし、旧字体: 藤󠄁原氏)は、日本の氏族。姓(カバネ)は朝臣。略称は
概要
中臣鎌足が没する直前に天智天皇に「藤原」の姓を賜ったことに始まる。子の藤原不比等は持統天皇の信任を受け、藤原姓は不比等の子孫に限ることとされた。 不比等の子の代で南家・北家・式家・京家の四家に分かれた。平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(御堂流)は院政期以降も摂政・関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格摂家となった。また庶流も公家や地下官人として多く存続している。称号(家名)の制度が定着するとそれぞれの家は「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などと呼ばれるようになり、武家なども「名字」を称するようになった。しかし本姓としては明治時代初期まで用いられ、姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称された。
出自
藤原氏の家祖中臣鎌足は朝廷において祭祀を司り、天児屋命を祖と称する氏族中臣氏の出身である。鎌足は中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変に参画し、その後も大化の改新と呼ばれる諸改革や天智天皇の政治に携わった。天智天皇8年(669年)10月、鎌足は死の直前に天智天皇から藤原の姓を与えられたとされる[1]。『日本書紀』天智天皇紀では10月15日に鎌足邸に遣わされた大海人皇子(天武天皇)により、最高位である大織冠と「大臣位」、そして「藤原姓」を賜ったとされる[2]。『藤氏家伝』大織冠伝によれば、鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなみ、「藤原朝臣姓」を授け、大織冠とともに太政大臣に任じたとされる[1][3]。一時は他の中臣氏でも藤原姓を称したものもあったが、やがて不比等の子孫に限定されていくこととなる。
皇別の藤原氏
奈良時代には皇族が臣籍降下した際、母の姓を受け継いで藤原朝臣を賜姓されることもあった。藤原弟貞(山背王、長屋王の子)や藤原仲麻呂の養子となった石津王が該当する。しかし弟貞の子孫は永原朝臣を賜姓されて藤原氏を称することはなくなり、石津王は仲石伴と改名したとも伝えられるが、いずれにせよ後裔は不明なため、皇孫の藤原朝臣は残らなかった。
歴史
鎌足没後の藤原氏
鎌足は藤原賜姓の翌日10月16日に没した[注釈 1]。通説では、鎌足の子である不比等[注釈 2]がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原と認められたとされる。他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、この時点で氏族としての藤原氏が成立したわけではないという見解もあり[2]、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説もある[7]。この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣・中臣金が壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。
しかし乱後に即位した天武天皇は鎌足の娘である氷上娘と五百重娘を臣下出身としては最高位の后妃である「夫人」としており、鎌足の子孫を優遇する姿勢を示していた[8]。天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められた際には、朝臣姓を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場しなかった。鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は、この際に「朝臣」を受けた「中臣氏」を名乗っていたとする。高島正人は翌天武天皇14年(685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、としている[7]。
八色の姓成立後は、不比等以外の中臣の一族が藤原朝臣を称することが多くなった[9]。『日本書紀』天武天皇14年9月の記述では藤原朝臣大島(鎌足の従弟中臣渠毎の子)が天皇の衣服を賜ったという記述がある[10]。大島は不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている[7]。『日本書紀』持統天皇4年(670年)には大島が「天神寿詞」を読んだという記述があるが、この際には「藤原朝臣」ではなく「中臣朝臣」として書かれている[11]。倉本一宏は神祇を職掌とする「名負氏」中臣氏の代表として中臣姓を称したのではないかとしている[11]。ただし持統7年の大島の死亡記事では「葛原(ふじわら)朝臣大島」と記載されている[12]。またこの頃には意美麻呂も「葛原朝臣」と記述されるようになっている[13]。
不比等の台頭
不比等は大舎人時代のの天武天皇7、8年頃(678年頃)に右大臣を務めた蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えている[14]。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示した[15][14]。
持統天皇3年(689年)2月、藤原朝臣史(不比等)は、中臣朝臣臣麻呂(中臣意美麻呂)(不比等の又従兄弟、鎌足の娘婿)とともに、判事に任官され正式な官人となった[16]。文武天皇元年(697年)8月には、持統天皇の譲位により軽皇子(文武天皇)が即位した。不比等は葛野王とともにこの擁立を支え、娘の藤原宮子は天皇の夫人となった[17]。
文武天皇2年(698年)8月、文武天皇は藤原の姓を不比等が継承し、意美麻呂らは神事に関わることから中臣の姓を称するように命じたことで、中臣氏と藤原氏は明確に分離された[18]。これは政治を司る太政官と祭祀を司る神祇官が並立する体制となったことに対応するものであり、不比等とその子孫が政治に携わるということを示すものとなった[18][注釈 3]。
不比等は下毛野古麻呂らとともに大宝律令と、それに続く養老律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。大宝元年(701年)には高い位階を持ったものの子孫が高位に叙される蔭位制が開始された。これは正一位相当とされた鎌足の子孫にとって極めて優位な制度であり、不比等の家系が高い地位を得るもととなった[19]。対して出身の段階で高い位階を得られない他の氏族は昇進も停滞するようになり、子孫に蔭位で高い位階をつけることはますます困難なものとなっていった[20]。またこの頃不比等は後宮で勢力を持っていた県犬養三千代を後室に迎えている[21]。
さらに宮子が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、皇子の後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる[22]。
奈良時代
不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王ら皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。729年(天平元年)、長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。
藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。731年(天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していったことの証でもあった。この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。
737年(天平9年)、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄、玄昉、吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后の信任を得た南家・藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。仲麻呂は757年(天平宝字元年)には諸兄の子・橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を振るい、仲麻呂の一家には特に「恵美」を姓に加えられ、「藤原恵美朝臣」を称した。しかし光明皇太后の死後孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が台頭し、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で敗死した。
仲麻呂の失脚後も、重祚した称徳天皇(孝謙上皇)は、藤原氏の援助と支持を必要としていた。左大臣藤原豊成が没すると、北家の永手を右大臣・左大臣と相次いで昇進させ、首班公卿とした。この際に永手に対し、かつて天智天皇が「鎌足・不比等の子孫で明き浄き心を持ち朝廷に奉仕するものは必ず取り立て、その子孫を絶やさない」と述べたという書を示し、特別な一族であることを示している[23]。
三家の興亡
神護景雲4年(770年)、称徳天皇が後継を定めないまま没すると、後継となった光仁天皇の擁立に功があった式家の藤原良継・百川の勢力が強まった[24]。しかし良継は間もなく没し、北家の魚名が台頭した[25]。天応2年(782年)、魚名が氷上川継の乱で失脚すると、桓武天皇の近臣であった式家の種継が勢力を伸ばし始める[26]。延暦4年(785年)に種継が暗殺されると、しばらくは南家の継縄・北家の内麻呂らによって政権が主導された[27]。延暦12年(793年)9月には、藤原氏に限り、二世以下の女王と結婚することが許可された[28]。
桓武天皇の跡を継いだ平城天皇は自身の擁立に功があった種継の子薬子・仲成を重用した[29]。大同2年(807年)に伊予親王の変が発生し、南家の雄友・乙叡が失脚、南家の勢力は大きく衰退したが、これは仲成の策動によるものとされている[30]。大同4年(809年)、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した。嵯峨天皇は内麻呂の子である北家の冬嗣を登用し、天皇の意思を直接太政官に伝える蔵人所の長官である蔵人頭に据えた[31]。弘仁元年(810年)、内麻呂と冬嗣を中心とする嵯峨の宮廷はクーデターを起こして仲成を処刑し、平城の影響力を排除した[32]。
冬嗣の子良房は嵯峨天皇の娘である源潔姫と結婚し、早くから藤原氏の中心人物となると見られていた[33]。承和9年(842年)の承和の変では中納言に過ぎなかった良房に全ての処理が命じられた。この事件では式家から中納言吉野や東宮坊の官人5名が処分されている[34]。この事件により良房の妹順子を母とする道康親王(後の文徳天皇)が立太子し、良房の優位は決定的なものとなった[34]。
承和10年(843年)に式家最後の大臣である藤原緒嗣が没し、承和13・14年(848年~847年)に良房の兄弟である長良と良相が参議となると、以降の藤原氏の議政官はほぼ北家に独占されることとなった[35]。嘉祥元年(848年)に良房が右大臣となると、以降は北家のみが大臣に登ることとなった[35]。
摂関政治
良房は清和天皇の外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。
藤原道長・頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。道長の嫡流は御堂流とよばれ、藤氏長者・摂関に登りうる唯一の家、いわゆる摂関家とされ、他の公家とも隔絶した地位を得た。
一方で官人の大半が藤原氏の後裔で占められるようになり、それらの家系は家職をもった公家の家として続いていくこととなる[36]。代表的な家系には中御門流(松木家、持明院家等)[37]、閑院流[38]、勧修寺流[39]、日野流[39]などがある。
また受領層となった家の一部は地方に土着して武士化した。特に藤原清衡は奥羽において勢力を拡大して反映し、その家は特に奥州藤原氏と呼ばれるようになる。特に藤原利仁、藤原秀郷の後裔を称する武家は特に多かった。ただし、実際には家系を粉飾し、藤原氏後裔を仮冒する武家も多かったと見られる。
平安後期になり、摂関家とミウチ関係を持たない上皇による院政が始まると、摂関家の影響力は低下した。一方でこのことは天皇との外戚関係と無関係に摂関家が摂関の地位を占めることにつながった[40]。一方で院近臣となった一部の藤原氏家系は勢力を拡大した。藤原基隆や葉室顕隆はその中でも大きな勢力を誇った。また閑院流は院政期に複数の天皇の外戚となったことで家格を上昇させ、西園寺家・三条家・徳大寺家を始めとする清華家など多数の堂上家を輩出している。一方で、藤原氏の氏寺である興福寺による強訴が行われた際は、衆徒が春日大社の神木を入京させることがしばしば行われるようになった。神木が京中にある時は藤原氏の公卿・殿上人は謹慎しなければならず、ほとんどの高官が藤原氏で占められた朝廷の政務が麻痺することとなったため、強訴の効力は極めて大きいものであった。
平安時代末期以降には公家では称号、武家では名字と言われる「家名」が一般的となり、後世から「藤原」の氏を関して呼ばれる人物は少なくなっていく。
中世
鎌倉時代に入ると、摂関家の嫡流は近衛家・九条家の二流に分裂し、近衛家からは鷹司家、九条家からは二条家・一条家が分かれた。これらは五摂家と呼ばれ、これらの家から摂関・藤氏長者を出すこととなった。
九条家の九条道家の子頼経は鎌倉幕府の将軍となり、その子の頼経とともに摂家将軍と呼ばれる。道家はこれにより朝廷と幕府に対して強い影響力を誇ったが、宮騒動と宝治合戦によって摂家将軍に代わって親王が迎えられる体制となった。代わって朝廷と幕府の連絡役である関東申次となった西園寺家の勢威が増大した。
武家政権の世となり藤原氏の影響力は低下したものの、鎌倉時代に勢力を張った藤原氏の武家として武蔵国の比企氏・安達氏、毛呂氏、下野国の小山氏・宇都宮氏、下総国の結城氏、常陸国の小田氏、伊豆国の伊東氏、相模国の山内氏、九州の少弐氏・菊池氏、幕府の官僚となった二階堂氏などが知られる。
室町時代になると、二条良基が室町幕府に接近し、将軍足利義満を朝廷に深く参画させることで、その安定を図ろうとした。このため二条家は将軍から代々偏諱を受けるなど 関係を深め、他の摂家平均の2倍以上の間摂関を務めることとなる[41]。また日野家は義満以降の代々の将軍家御台所を出し、8代将軍義政の御台所であった日野富子は、明応の政変を主導するなど大きな影響力を持った。武家では関東管領を世襲した上杉氏が知られる。
戦国時代においては藤原氏の後裔を称する戦国大名が多く勢力を拡大した。陸奥国の伊達氏・津軽氏、肥前国の龍造寺氏・鍋島氏・肥前有馬氏が知られる。この時代、公家の多くは困窮し、摂家の一部が地方に在国することも行われた。なかでも一条教房は土佐国に下り、その子孫は公家でありながら地方権力として統治を行う、一種独特の体制を築きあげた(土佐一条氏)。近衛家は足利義晴・義輝父子に接近し、日野家に代わって将軍家御台所を出して幕政に深く関与した。この体制は足利―近衛体制とも呼ばれる[42]。
近世
江戸時代において、禁中並公家諸法度で確立された朝廷秩序は摂家の指導によって維持されるものとされた。江戸幕府を支えた譜代大名にも藤原氏を称する家があり、井伊氏・本多氏・大久保氏・内藤氏・戸田氏・田沼氏などがある。また下冷泉家の出身である藤原惺窩は儒学の研究で知られ、その弟子の林羅山の子孫である林家は代々大学頭として江戸幕府に影響を与えていた。
近代
明治維新後、明治2年7月8日(1869年8月15日)の職員令の公布に伴い、任官者である政府の官僚・政治家は任官の証書である「官位記」や職員名簿に本姓で記載されることとなった[43]。この時期に「藤原朝臣」を称していたのは内閣制度成立まで政府首班を務めた三条実美、維新の三傑である西郷隆盛と大久保利通などが知られる。明治4年10月12日(1871年11月24日)には姓氏を公用文書に書くことは廃止され、氏が公的な役割を果たすことはなくなった[44]が、公家・大名諸侯が列せられた身分である華族の多くは藤原氏の一族であった。明治9年(1876年)に開始された宗族制度は華族を先祖ごとの「類」に分類するものであるが、藤原朝臣の「類」は最も多く、第42類から第63類までの21類におよぶ。これら藤原氏後裔の華族は多くの政治家などを輩出した。内閣総理大臣を2度務め、実質的な首相選定者であった元老となる西園寺公望、三度首相となった近衛文麿などが代表的である。
現代
昭和41年(1966年)には藤原氏の後裔で構成される親睦団体「藤裔会」が組織され[45]、年1回秋頃に全国の藤原氏の末裔が奈良市の春日大社で会合などが執り行われている。
系譜
- 藤原氏系図(藤原四家成立まで)[46]
- 藤原氏諸家略系図
- 堂上公家に限定して記載。江戸時代末には、堂上公家である5摂家・9清華家・3大臣家・66羽林家・28名家・26半家(計137家)のうち、5摂家・7清華家・2大臣家・55羽林家・25名家・2半家(計96家)が藤原氏出身であった。
- 系図の詳細については各家項目の系図を参照。
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藤原南家 |
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巨勢麻呂流 (高倉流) |
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藪家、中園家、 高丘家 |
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藤原北家 |
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道長流 (御堂流) |
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摂家流 |
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近衛流 |
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近衛家、鷹司家 |
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九条流 |
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九条家、二条家、 一条家、醍醐家、 富小路家 |
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松殿流 (断絶) |
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師実流 (花山院流) |
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花山院家、大炊御門家、中山家、野宮家、今城家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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難波流 |
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難波家、飛鳥井家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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頼宗流 (中御門流) |
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中御門家(松木家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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持明院流 |
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持明院家、園家、東園家、壬生家、高野家、石野家、 石山家、六角家 |
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長家流 (御子左流) |
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冷泉家(上冷泉)、冷泉家(下冷泉)、藤重家、入江家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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隆家流 (水無瀬流) |
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水無瀬家、七条家、町尻家、桜井家、山井家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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公季流 (閑院流) |
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三条流 |
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三条家(転法輪家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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姉小路流 |
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姉小路家、風早家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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正親町三条流 |
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嵯峨家(正親町三条家)、花園家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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三条西流 |
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三条西家、武者小路家、押小路家、高松家、 滋野井流(滋野井家、河鰭家、阿野家、山本家) |
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西園寺流 |
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西園寺家、菊亭家(今出川家)、清水谷家、大宮家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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橋本流 |
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橋本家、梅園家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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洞院流 |
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洞院家(室町期に断絶)、正親町家、小倉家、裏辻家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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四辻流 |
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四辻家、西四辻家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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徳大寺家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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長良流 (高倉流) |
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高倉家、堀河家、樋口家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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良門流 (勧修寺流) |
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甘露寺家、葉室家、万里小路家、堤家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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清閑寺流 |
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清閑寺家、池尻家、梅小路家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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勧修寺庶流 |
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勧修寺家、坊城家、芝山家、穂波家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中御門流 |
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中御門家、岡崎家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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真夏流 (日野流) |
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日野家、外山家、豊岡家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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烏丸流 |
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烏丸家、勘解由小路家、裏松家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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柳原流 |
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柳原家、三室戸家、北小路家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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広橋流 |
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広橋家、竹屋家、日野西家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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魚名流 (四条流) |
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四条家、山科家、西大路家、鷲尾家、油小路家、 櫛笥家、八条家、園池家 |
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藤原式家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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藤原京家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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藤原氏と宗教
鎌足の長子定恵が出家して以降、藤原氏は多くの仏僧を輩出してきた。平安時代後期には大寺院における門跡制度が定まり、大寺院の主を摂家出身者が占めることが長く続いている。摂家出身の高僧としては慈円、満済、尋尊などが知られる。
浄土真宗の祖となった親鸞は日野家の出身であり、親鸞の曾孫で第三代本願寺門主であった覚如は藤原氏の一族であることを強く意識しており[47]、広橋兼仲の養子となるなど、日野家一族との関係を深めた[48]。本願寺十世の証如は九条尚経の猶子となり、以降は九条家と深い関係を結ぶようになった[49]。以降代々の法嗣(門主継承予定者)も九条家の猶子となる慣例が江戸時代まで続いた[50]。
藤原氏の武家
藤原氏は多くの地方官人を輩出したため、軍事貴族となる家も多く生まれた。中でも藤原利仁や藤原秀郷の後裔を称する武家は特に多い。これらの武家で江戸時代に大名として残り、明治時代に華族となった家は藤原氏の旧堂上家と同族として扱われた。
また、徳川家康は任官の都合上、一時的に藤原氏を称している。
藤原氏を称する著名な武家
藤原氏由来の名字
談山神社が組織した「談の会」が発行した『藤原氏族一覧』には3452の名字が掲載されている[51]。特に「藤」の字が入った名字は藤原氏の末裔であるとされることも多い。
ただし全国に散らばる藤原氏同族とされる雄族の多くが、藤原氏と氏神を共有せず、地方への赴任事情が不明であり、系図上でも親子関係などで疑問が残るものも存在する。これらの事情には、他の氏族の後裔が藤原氏の一族の養子・猶子となるか、先祖の系図を藤原氏に無理矢理接続させたという類例が武家では非常に多いためとされる。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などはその多くが本来藤原氏とは無関係であったとも見られる[52]。
十六藤
特に以下の名字は十六藤(じゅうろくとう) と呼ばれる。
その他の著名な名字
十六藤以外で、藤原氏由来とされる苗字。藤を「とう」と読まない場合もある[53]。
脚注
- ↑ 鎌足の死は、庚午年籍が編纂されて全ての臣民が戸籍に登録される前年であるが、藤原の姓の由来が大和国高市郡にもかかわらず、戸籍上の藤原朝臣は全て京戸として扱われている。これは天智・天武両天皇の子孫である諸王及び諸氏と同じ待遇であった[4]。
- ↑ 平安時代末期に作成された『大鏡』では不比等が天智天皇の子であるという記述があるが、おそらく摂関時代に作り上げられた説と見られている。[5]。その後の『公卿補任』[6]、『帝王編年記』や伴信友の『松の藤靡』等にも落胤説が記載されている[5]。
- ↑ 意美麻呂はその後中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った。そのため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。平安時代以降になると他の中臣氏も大中臣氏を名乗るようになるが、清麻呂の系統が嫡流であることは変わらず、藤波家として堂上公家に列する
出典
- 1 2 奥田尚 1997, p. 77.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 28.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 27.
- ↑ 市川理恵『王朝時代の実像2 京職と支配 平安京の行政と住民』(臨川書店、2021年) ISBN 978-4-653-04702-5 P184-185.
- 1 2 横田健一「藤原不比等伝研究序説」『関西大学東西学術研究所紀要』第7巻、関西大学東西学術研究所、1974年、23-24頁、ISSN 0287-8151、 NAID 120006494402。
- ↑ 経済雑誌社 編『国史大系 第9巻 公卿補任前編』経済雑誌社、1898年、8頁。 doi:10.11501/991099。NDLJP:991099/12。
- 1 2 3 高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号1980年1月/ 所収: 高島『奈良時代の藤原氏と朝政』吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-02342-9 第一章
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 40.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 43-44.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 44.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 47.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 48-49.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 49.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 40-41.
- ↑ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 45-46.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 50-51.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 52.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 52-53.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 56-59.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 51.
- ↑ 鎌田東二「「日本的霊性」を問い直す」『公共研究』第3巻第1号、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2006年、56-78頁、 ISSN 1881-4859、 NAID 120007086205。
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 126.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 130-132.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 134.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 136.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 143-149.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 148.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 143.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 152.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 153-154.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 154-156.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 162.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 163.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 164.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 202.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 243.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 247.
- 1 2 倉本一宏 2017, p. 250.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 234、240.
- ↑ 小川剛生「即位灌頂と摂関家 : 二条家の「天子御灌頂」の歴史」『三田國文』第25巻、慶應義塾大学国文学研究室、1997年、14-16頁、 CRID 1390572174857320960、 doi:10.14991/002.19970300-0001、 ISSN 0287-9204、 NAID 110000376039。
- ↑ 石原比伊呂「室町後期の近衛家と他の摂家~近衛政家を中心に」『聖心女子大学論叢』第129巻、聖心女子大学、2017年、33頁、 ISSN 0037-1084、 NAID 120006346723。
- ↑ 尾脇秀和『氏名の誕生』筑摩書房〈ちくま新書〉、2021年4月、230頁。 ISBN 978-4-480-07376-1。
- ↑ 『法令全書 明治4年』内閣官報局、1888年、367頁。 doi:10.11501/787951。NDLJP:787951/220。
- ↑ 春日大社 国宝殿 [@kasugataisha.official] (2026年4月25日). “藤裔会創立60周年記念事業「藤原道長歌碑」奉納”. Instagramより2026年5月25日閲覧.
- ↑ 『尊卑分脈』1巻 P23~24。
- ↑ 吉田唯「覚如の伝記に見る和歌と神衹について : 『沙石集』との影響関係を中心に」『國文學論叢』第58巻、龍谷大學國文學會、2013年、harv、 ISSN 0288-7770、 NAID 110009581299。
- ↑ 冨島信海 2016.
- ↑ 冨島信海 2016, p. 39-40.
- ↑ 冨島信海 2016, p. 43-58.
- ↑ 倉本一宏 2017, p. 286.
- ↑ 宝賀寿男「藤原氏概覧」『古樹紀之房間』、2007年。
- 1 2 ビーバップ!ハイヒール、2009年7月2日放送(ABCテレビ(朝日放送))
参考文献
- 奥田尚「藤原-中臣氏の出自と実態」『東洋文化学科年報』第12巻、追手門学院大学文学部東洋文化学科、1997年、 ISSN 0913-2163、 NAID 110008753496。
- 倉本一宏『藤原氏―権力中枢の一族』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。 ISBN 978-4121024640。
- 冨島信海「本願寺の系譜 : 歴代宗主の事績と聖教」『浄土真宗総合研究 = Jodo Shinshu research / 教学伝道研究センター 編』第10巻、京都 : 教学伝道研究センター、2016年、 ISSN 2185-5277、 NAID 40020986973。
関連項目
- 神社
-
- 元は「多武峯妙楽寺」という名の寺院。鎌足の子・定恵の創建。
- 伝・鎌足墓所、伝・不比等墓所が所在。
- 寺院
- その他
- 『藤氏家伝』 - 奈良時代に成立した藤原氏の家伝書
- 勧学院 - 藤原氏による平安時代の大学別曹
- 「藤原」で始まるページの一覧
「藤氏」の例文・使い方・用例・文例
- 佐藤氏を紹介しましょう。
- 佐藤氏は上京する前は生まれ故郷でスーパーを経営していた。
- 佐藤氏は、私に選挙について多くの質問をした。
- 加藤氏は、パリに在住していて、家に残した家族を懐かしがっている。
- 伊藤氏は事務所で熱く感じたのでネクタイを緩めた。
- 伊藤氏といえば、息子さんはどうなりましたか。
- 1995年、安藤氏は建築におけるもっとも権威ある賞を受賞した。
- (選挙で)伊藤氏は安全圏に入っている.
- 彼らは安藤氏から至れり尽くせりのもてなしを受けた.
- 同社は佐藤氏に 5 千万円の裏金を払った.
- あの家はかつて伊藤氏の所有だった.
- 今晩佐藤氏による近代文学についての講演がある.
- その映画の音楽は佐藤氏の作曲だ.
- そもそものなれそめは加藤氏宅でのダンスパーティーであった.
- このじゅうたんは工藤氏のデザインによるものです.
- (開票の結果)最高点は伊藤氏、欠点は佐藤氏に帰した
- >> 「藤氏」を含む用語の索引
- 藤氏のページへのリンク
