近世の青瀬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:36 UTC 版)
青瀬という地名は江戸時代より見られ、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。また、元禄国絵図においては下甑村のうちであったと記載されている。村高は「旧高旧領取調帳」の記述によれば322石余、「三州御治世要覧」によれば250石余であった。 測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」では青瀬村の家数は216と記録されており、また伊能が記した「伊能忠敬測量日記」において青瀬村の瀬尾に人家が3~4軒、漁小屋12~13軒と記されている。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では瀬尾瀑布について以下のように記述されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}下甑村青瀬にあり、流水此地の瀬尾山より出て、瀑布となる、水勢大ならずといへども、其高いこと凡三十間、東に向ふ、瀑布凡そ三層にして落つ、下の一層は、巨巌の滑石にして、幾條にも分て、宛も白練を掛たるが如し、瀑下一面の平石にして、瀑潭なく、流水平石の上を行く、下流は青瀬の海に入る、瀑布の下に二間方の堂あり、聖觀音を安置す、因て観音瀑ともいふ、左右に岡阜あり、林木翠を交へ、風光佳勝なり、海中船を浮て眺望するに、上二層の瀑布、山翠の中に彩を分ち、景状更に妙絶なり、源俊頼歌に、山姫の嶺の梢に引かけて晒せる布やたきのしら浪、と詠せしは、此瀑の景勝に愜へり、 —三国名勝図会第三十巻
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