近世の金融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
典当業 担保を取って金を貸す典舗や当舗という質屋(典当業)にあたる金融業があり、典当業は預金も受け付けて生息銀と呼んだ。預り証をもとにして、現金に交換できる銭票や銀票(中国語版)と呼ばれる証書も発行されて市場でも流通した。徽州商人(徽商)は全国で典当業を経営した。預金利子は平均36パーセントだったが、明末の法定金利が月三分から四分のところを、徽州商人は豊富な資金を背景に典当の金利を低くして一分〜二分として繁盛し、貧民に利益をもたらしたという評判も得た。 銭舗・銭荘 銀貨に加えて私鋳の銅貨が流通して貨幣の交換が必要となり、地方金融機関にあたる銭荘や銭舗と呼ばれる業者が両替を行った。銭荘は預金も受け入れて金融業者として活動した。資本金は500〜5万両で、取り引き相手は中小の商人や生産者だった。推計では、17世紀後半から19世紀前半の北京では銭舗が389軒、上海では18世紀後半に銭荘が124軒あった。預金利子は平均12パーセントだった。 票号・銀号 票号は山西商人(中国語版)(晋商)が多い金融機関で、8〜20万両と潤沢な資本金があり、政府や官僚、大商人と取り引きをした。山西票号は皇族や貴族の資金も取り扱った。預金、両替、貸付をする銀号(中国語版)や、為替業務や送金を行う票号があった。預金利子は平均5〜8パーセントだった。 共同出資 海洋商船はジャンクと呼ばれる船が主流であり、共同出資が行われた。船長は出資の代表であり、船の株を持つ船員も多かった。総収益から経費を引いた額が共同出資者と乗組員によって配分され、次に出資者は出資額、乗組員は役職に応じて配分された。客商たちは血縁集団で合股(中国語版)と呼ばれる共同出資を行なった。 郷紳と金融業 江南デルタを中心として郷紳と呼ばれる官僚が影響力を持つようになった。郷紳は都市に住みつつ、官僚として得た貨幣を故郷の土地に投資して地主となった。郷紳は税法で優遇もされており、自身は商業を禁止されていたが一族は高利貸も経営した。さらに郷紳は租桟と呼ばれる一種の信託機関を設立して支配を強めたが、のちの辛亥革命では郷紳も攻撃目標にされた。
※この「近世の金融」の解説は、「中国の貨幣制度史」の解説の一部です。
「近世の金融」を含む「中国の貨幣制度史」の記事については、「中国の貨幣制度史」の概要を参照ください。
- 近世の金融のページへのリンク