近世の赤水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)
江戸時代には大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では163石余、「郡村高辻帳」では163石余、「三州御治世要覧」では271石余、「旧高旧領取調帳」では289石余であった。江戸時代の桜島では水田がなかったことからハゼノキが多く栽培されており、赤水村には櫨を保管する倉庫が多く置かれていた。赤水村の沖合には烏島があり、烏島について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」では以下のように記述している。烏島は後述のとおり1914年(大正3年)に発生した大正大噴火の際に埋没した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}烏島 赤水村の南、三町許の海中にあり、文明七年八月十五日、野尻村火を發す、島人傳へいふ是時涌出せしといふ、今は雑木繁茂す、土俗に唯松樹の生ずる事を忌むといへり、今に一松樹を生ずるなし、烏鴉多く集り栖む、因て名を得るとかや、周匝半里許あり、人居なし、寛永十年五月、慈眼公辯財天の祠を創建し給へり、 —三国名勝図会巻之四十三 安永8年(1779年)に発生した桜島の安永大噴火では赤水村の住民は鹿児島城下に避難した。また噴火の影響により桜島北部にある高免村(現在の高免町)の沖合に島が隆起し、これらの島は「新島」と呼ばれた。寛政12年(1800年)には赤水村及び黒神村(現在の黒神町)から13名が移住し、新島は赤水村に属することとなった。 嘉永3年(1850年)には薩摩藩によって赤水に砲台が築かれ、翌年の嘉永4年(1851年)には火薬庫も設置された。文久3年(1863年)時点では桜島赤水砲台には6門の大砲が設置されていた。同年7月2日には鹿児島湾において薩摩藩とグレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)との間で薩英戦争が勃発し、赤水砲台には国分郷・囎唹郡郷の兵が配備された。 1877年(明治10年)に西郷隆盛を盟主とする士族による武力反乱である西南戦争では主戦場となった鹿児島府下にある鹿児島県庁は兵乱を避けるため、赤水村に一時的に仮出張所を置いた。1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、赤水村は北大隅郡の所属となった。
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