近世の藤川村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:15 UTC 版)
江戸時代には薩摩国薩摩郡東郷(外城)のうちであった。村高は寛文4年の「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」では314石余、延享頃の「三州御治世要覧」では414石余、「旧高旧領取調帳」では431石余と記されている。慶長19年(1614年)にそれまで東郷を領していた宮之城島津家が宮之城に転封したことにより、東郷は薩摩藩の直轄領となった。直轄領となった藤川は但馬守によって統治された。寛永10年(1633年)には日置島津家の島津久慶が東郷を領することとなった。近世の後期には藤川は重富島津家の持切在であったとされる。 「角川日本地名大辞典」によれば江戸時代の藤川の寺社としては藤川庵跡と伝える薬師堂、観音堂、香積寺跡と伝えられる地蔵堂の他に藤川天神などがある。藤川天神は九州平定によって藤川の地に進軍してきた豊臣秀吉の軍によって荒らされ焼失していたが、棟札によれば正保4年(1647年)に薩摩藩主島津光久の命によって再興されたとされる。文化12年(1815年)には薩摩藩主島津重豪の命により藤川天神の修築改造が行われた。 薩摩の歌人八田知紀は天保8年(1837年)に藤川天神を参拝して以下の歌を詠んでいる。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}梅が香も かたじけなさも身にしみて おぼえず袖に 散る涙かな —八田知紀 薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には藤川天神が絵図付きで以下のように掲載されている(一部抜粋)。 藤川天神社 藤川村にあり、祭神天満大自在天神一坐、建立の年月詳ならず、土人の傳へに、延喜中、菅丞相筑前國大宰府に左遷し給へる時、其害を避て、潜に薩摩に來り、此地山水幽遽の境なるを以て、匿居し、終に此地にて薨じ玉ふ、因て此に葬る、後人祠廟を建て、祭祀を修すといへり、當社は一岡阜の上にあり、其地名を北野といふ、此地前後岡嶺相連りて、其中に谷川あり、藤川といふ、 —三国名勝図会巻之十二 また、薩摩藩によって藤川村の山奥の本俣集落に製鉄炉、榎段集落に火薬工場が造られており、「東郷町郷土史」によればこれらは秘密工場と呼ばれた。1875年(明治8年)には藤川天神の大修築が行われた。1888年(明治21年)6月15日には隈之城警察署藤川駐在所が開設された。藤川駐在所は1963年(昭和38年)4月1日に鳥丸にある鳥丸駐在所に統合されるまで存続した。
※この「近世の藤川村」の解説は、「東郷町藤川」の解説の一部です。
「近世の藤川村」を含む「東郷町藤川」の記事については、「東郷町藤川」の概要を参照ください。
- 近世の藤川村のページへのリンク