近世の福山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:40 UTC 版)
「福山町 (鹿児島市)」の記事における「近世の福山」の解説
江戸時代には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであった。村高は「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」では939石余、「三州御治世要覧」では560石余、「旧高旧領取調帳」では538石余であった。伊集院郷は概ね島津氏の直轄領が多かったが、福山村は文禄5年(1598年)以降宮之城島津家の領地であった。明治時代初期には宮之城島津家の家来であった郷士が16戸居住していた。 村内には福山上、福山中、福山下の3つの字に分かれており、現在でも自治公民館に踏襲されている。1886年(明治19年)4月には福山村瀬戸出口に善福簡易小学校が設置された。善福簡易小学校は1892年(明治25年)に上谷口へ移転し、現在は鹿児島市立松元小学校となっている。
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