近世の石谷村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:24 UTC 版)
「石谷町 (鹿児島市)」の記事における「近世の石谷村」の解説
江戸時代には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであり、村高は「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」では1,049石余、「旧高旧領取調帳」では683石余であった。村内は仁田尾、東、松ノ尾、西、六ヶ所、下、新村などの字に分かれていた。 また、寺田屋騒動で知られる有馬新七は石谷の領主であった町田久成の要請により万治元年より石谷の地を統治していた。居住地は西方限にあり、有馬新七によって文久元年に東方限の丸岡に楠公神社が造営され、二才連中の訓育の為に悪事をなした者の罰として石を運搬させ、地内に石畳(石坂)を作らせるなどをしたとされている。
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