近世の町割り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:23 UTC 版)
近世には兵農分離により、城下町において町人と武士の住む場所は濠や堤によって分けられるようになった。 安土桃山時代、安土(現在の近江八幡市安土町)では武士と町人が混住しすぎたため様々な身分上の対立が起こり問題があった。そこで、豊臣秀次は八幡では武家屋敷と町屋は明瞭に区分して一つの城下町を作らせた。これが近世の城下町における典型的な町割りの嚆矢となった。 各々の町は形態的には街路網により地割が画定され江戸、仙台、甲府、駿府、名古屋、大阪、小倉などの碁盤型、伊賀上野、秋田、福島などの短冊型などがあった。 江戸時代初期には職人町と商人町とに分けられた。職人町には大工町、石切町、塗師町、樋町、鍛冶町(鍛治町)、紺屋町、大鋸町、研屋町、金屋町、細工町、檜物師町、畳町、瓦町などの名があり、商人町には肴町(魚町、魚屋町)、米町(穀町、石町)、塩町(塩屋町)、油屋町、茶町、八百屋町(青物町)、紙屋町(紙町)、呉服町、瀬戸物町、材木町(木町)、博労町(馬喰町)など、交通関係では伝馬町、旅籠屋町、連雀町(連尺町)などがあった。これらは大名によって職能集団ごとに町立てが命じられた結果である。一方、大坂では人名を冠した町名が非常に多くあり(特に現在の大阪市中央区)、これらは町開発者(町立てを主導した人物)の名だという。
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