近世の甲斐善光寺
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天正10年(1582年)3月には織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が行われ、武田勝頼は滅亡する。信長は戦後に残党狩りを行い、甲府で多くの武田家臣を処刑しているが、『甲陽軍鑑』等によれば、甲斐善光寺では勝頼異母弟の葛山信貞、郡内領主・小山田氏の当主小山田信茂、小山田一族の小山田八左衛門尉、山県同心の小菅五郎兵衛らが処刑されたという。小山田信茂に同行した武田信堯も処刑された。 武田氏の滅亡後、信長嫡男の織田信忠により善光寺如来は美濃国岐阜城城下(岐阜県岐阜市)に移転される。同年6月に本能寺の変により信長・信忠親子が討たれると、善光寺如来は信長次男・信雄により尾張国清州城城下(愛知県清須市)へ移転される。さらに天正11年(1583年)6月には善光寺如来は徳川家康により三河国吉田・遠江国浜松を経て、甲斐善光寺へ戻された。 京都では文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により東山・方広寺(京都府京都市東山区)の大仏が倒壊する。慶長2年(1597年)7月には豊臣秀吉の要請により、大仏の代わりとして善光寺如来が京へもたらされ、同年7月18日に大仏殿に安置された。慶長3年(1598年)には信濃善光寺へ戻されている。 江戸時代には浄土宗に帰依していた徳川氏の庇護を受け、浄土宗甲州触頭となる。 江戸時代中後期には甲斐国古関村丸畑(南巨摩郡身延町)出身の木食僧・木喰が甲斐善光寺を訪れる。木喰は諸国を廻国し木喰仏と呼ばれる多くの木像を残し、寛政12年(1800年)には日本一周を達成し、故郷の丸畑で四国堂を創建している。 木喰は最晩年の文化5年(1808年)4月に甲府市城東の教安寺において七観音(甲府空襲で焼失)を制作したのを最後に記録からは見えないが、甲斐善光寺に伝来する「阿弥陀如来図」は文化5年3月21日の作で、阿弥陀如来の図像のほか6首の和歌が記されている。
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