近世の甲斐善光寺とは? わかりやすく解説

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近世の甲斐善光寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)

甲斐善光寺」の記事における「近世の甲斐善光寺」の解説

天正10年1582年3月には織田信長徳川家康連合軍による武田征伐が行われ、武田勝頼滅亡する信長戦後残党狩り行い甲府多く武田家臣を処刑しているが、『甲陽軍鑑』等によれば甲斐善光寺では勝頼異母弟葛山信貞郡内領主小山田氏当主小山田信茂小山田一族小山田八左衛門尉、山県同心小菅五郎兵衛らが処刑されたという。小山田信茂同行した武田信堯処刑された。 武田氏の滅亡後信長嫡男織田信忠により善光寺如来美濃国岐阜城城下岐阜県岐阜市)に移転される同年6月本能寺の変により信長信忠親子討たれると、善光寺如来信長次男・信雄により尾張国清州城城下愛知県清須市)へ移転される。さらに天正11年1583年6月には善光寺如来徳川家康により三河国吉田遠江国浜松経て甲斐善光寺戻された。 京都では文禄5年1596年)閏7月13日発生した慶長伏見地震により東山方広寺京都府京都市東山区)の大仏倒壊する慶長2年1597年7月には豊臣秀吉要請により、大仏代わりとして善光寺如来が京へもたらされ同年7月18日大仏殿安置された。慶長3年1598年)には信濃善光寺戻されている。 江戸時代には浄土宗帰依していた徳川氏庇護を受け、浄土宗甲州触頭となる。 江戸時代中後期には甲斐国古関村丸畑南巨摩郡身延町出身木食僧・木喰甲斐善光寺訪れる。木喰諸国廻国木喰仏呼ばれる多く木像残し寛政12年1800年)には日本一周達成し故郷丸畑四国堂を創建している。 木喰最晩年文化5年1808年4月甲府市城東教安寺において七観音甲府空襲焼失)を制作したのを最後に記録からは見えないが、甲斐善光寺伝来する阿弥陀如来図」は文化5年3月21日の作で、阿弥陀如来図像のほか6首の和歌記されている。

※この「近世の甲斐善光寺」の解説は、「甲斐善光寺」の解説の一部です。
「近世の甲斐善光寺」を含む「甲斐善光寺」の記事については、「甲斐善光寺」の概要を参照ください。

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