近世の甲州金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 16:14 UTC 版)
武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。 甲州金は元禄9年(1696年)に一時通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される。 近世の甲州金は、慶長13年(1608年)から翌慶長14年(1609年)にかけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは慶長6年(1602年)に慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている。 江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている。 幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した。このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した。文久元年(1861年)には甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという。 1871年(明治4年)の新貨条例施行ではすでに甲州金に関する例外的な措置は見られず、同年11月13日には甲州金は正式に廃止された。
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