大名時代
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同年この功により近江国内に1万石を拝領、大名に列する。広瀬加兵衛が与力として附属した。翌2年12月には平野新八と共同で、豊臣秀次の領地の尾張国愛知郡を検地する。文禄3年(1594年)従五位下・伊賀守に叙任され、豊臣姓を下賜された。また、名を直吉と改める。同10月、日野輝資の領地の検地を行う。 慶長3年(1598年)には正家の下で越前国検地の奉行の一人として働いた。
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大名時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。
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