「天正壬午の乱」から近世の新府城とは? わかりやすく解説

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「天正壬午の乱」から近世の新府城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 19:06 UTC 版)

新府城」の記事における「「天正壬午の乱」から近世の新府城」の解説

武田氏滅亡後織田氏甲斐駿河諏訪郡家臣河尻秀隆配置し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたという。同年6月には本能寺の変発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより主に甲斐信濃武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し三河国徳川家康相模国北条氏直甲斐へ侵攻した天正壬午の乱において徳川勢新府城本陣に、能見城など七里岩台上城砦布陣した。対して後北条氏都留郡制圧し若神子城本陣を置くと同様に周辺の城砦に布陣し徳川勢対峙した。同年10月には徳川北条同盟成立し後北条氏甲斐から撤兵する。 これにより甲斐徳川氏領し徳川氏甲府躑躅ヶ崎館本拠とした。天正18年1590年)の小田原合戦により後北条氏滅亡すると、豊臣政権臣従していた家康関東移封される。甲斐羽柴秀勝加藤氏浅野氏領し豊臣大名時代躑躅ヶ崎館中心とする武田城下町南端にあたる一条小山新たに甲府城築城され、甲府城下町形成された。関ヶ原の戦い経て甲斐は再び徳川氏領し近世通じて甲府城甲斐政治的中心地となり、新府城廃城となった

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