「天正壬午の乱」から近世の新府城
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武田氏滅亡後、織田氏は甲斐・駿河諏訪郡に家臣の河尻秀隆を配置し、秀隆は岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたという。同年6月には本能寺の変が発生し、秀隆は混乱のなかで横死する。これにより主に甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生し、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻した。天正壬午の乱において徳川勢は新府城を本陣に、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。対して後北条氏は都留郡を制圧し、若神子城に本陣を置くと同様に周辺の城砦に布陣し、徳川勢と対峙した。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、後北条氏は甲斐から撤兵する。 これにより甲斐は徳川氏が領し、徳川氏は甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした。天正18年(1590年)の小田原合戦により後北条氏が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東へ移封される。甲斐は羽柴秀勝・加藤氏・浅野氏が領し、豊臣系大名時代に躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町の南端にあたる一条小山に新たに甲府城が築城され、甲府城下町が形成された。関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び徳川氏が領し、近世を通じて甲府城は甲斐の政治的中心地となり、新府城は廃城となった。
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