「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」の始まり
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「福原愛」の記事における「「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」の始まり」の解説
初の公式戦出場は、1993年(平成5年)6月(4歳時)に開催された「宮城県小学生卓球選手権大会」であり、同大会で優勝、全国大会の同クラスでもベスト16に入った。公式戦中に泣き顔を見せたのはこの4歳のときだけである。マスコミは、幼稚園生が小学生のクラスで快進撃を続ける姿に注目し、「天才卓球少女」と報道した。これ以降、行く先々にマスコミが集まるようになるが(4歳でテレビでの初インタビューを受けた)、天真爛漫に振舞う福原はテレビでもしばしば取り上げられ「卓球の愛ちゃん」として知られるようになり、また、厳しい練習にも泣きながら耐える姿や、試合中に不利になり始めると泣き出す姿から「泣き虫・愛ちゃん」とも呼ばれるようになって、一躍国民的アイドルとなった。 同年12月10日放送のフジテレビ「第2回 明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演。すると、番組内での対戦で明石家さんま[出典無効](当時38歳)が福原(当時5歳)を泣かせた。デーモン小暮との対戦でも泣かされた[出典無効]。 1994年(平成6年)になると卓球専門誌「卓球レポート」の表紙に4月号で初登場し、同年5月には社会人リーグの大会(鹿児島県)、同年6月には社会人の全日本実業団卓球選手権大会(大阪府) に呼ばれてエキシビションマッチでプレーするなど、本来の卓球界においても全国各地に呼ばれる人気者となった。選手として2度目の全国大会に出場すると、個別にマスコミ対応していては福原の負担になるため初めて共同記者会見が開かれ、5歳10か月の幼稚園生ながら全日本選手権バンビの部(小2以下)において、史上最年少で優勝した。 同年12月にはウッチャンナンチャンの南原清隆[出典無効]が「泣いた瞬間の愛ちゃんと記念撮影を撮る」という企画で福原と対戦して泣かせた。「初泣き!初打ち! お正月の愛ちゃん!! 八丈島で(秘)特訓」でも母との1000本ラリーが完遂しなかったため、泣きながら再度ラリーを続ける姿が放送された。 すなわち、公式戦では4歳時にしか泣いていない が、後に福原が「泣くまで撮影が続けられた」と語った ように、長年『あっぱれさんま大先生』に出演し子役の扱い方を知っているはずの明石家さんまが泣かし、南原は泣かすことを公言して対戦し、母親から泣かせ方を伝授されるなど、バラエティ番組では制作側によって意図的に泣かされ、その泣き姿がスポーツ報道における福原の紹介ビデオなどでも繰り返し放送されたことで、まるで子役タレントのキャッチコピーのような「泣き虫・愛ちゃん」というイメージが固定化されていった。その一方、同年の大会以降も数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作っていくことで、「天才卓球少女」の名に違わぬ活躍を続けた。 仙台白百合学園幼稚園年長の1995年(平成7年)3月(6歳時)にテレビゲームソフトメーカー「ハドソン」のCMに初出演。同年4月に仙台市立吉成小学校に入学。
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