「天地の拍子」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 05:32 UTC 版)
真葛の宇宙観として独特なものに、上述の「天地の拍子」がある。これは、望みを託した弟源四郎が儒教を奉じて仁と義に則った生き方をしたにもかかわらず、なぜにそれが報われなかったのかを自分なりに納得できるまで思索することをやめなかったために生まれてきた概念である。 「心の抜け上がり」の経験によって世界のなかに存在するとさとった、天地のあいだに何かしら脈打つある種のリズム、これを真葛は「天地の拍子」と名づける。「天地の拍子」があり、一昼夜の数がある。真葛は、このふたつこそが絶対不動のものであるとし、聖の法(儒教道徳)に背いていると思われる人が時めくこともあれば、真面目に守っていても一向に世に用いられないこともあるのは、その人が「天地の拍子」にうまく適合したか否かということである、と考える。 仏の教も聖の道も、共に人の作りたる一の法にして、おのづからなるものならず。動かぬものは、めぐる日月と、昼夜の数と、浮きたる拍子なり。 真葛は、儒教も仏教も、この宇宙を解釈するひとつの哲学に過ぎず、自明なものでも絶対的なものでもないと考える。そして、人力のおよばない不変不動の絶対なものは、時の流れと「浮きたる拍子」があるだけだとするのである。そして、儒教の教えによって心を縛られた人間は、むしろその分「天地の拍子」に遅れ、かえって「よろしからぬ振る舞いの交じると見ゆる人は、拍子をはづさぬ」から、教えに縛られない人や愚人に負けてしまうのだとする。そして、「天地の拍子」は国により、また時代により異なる「生きたる拍子」 であり、「唐国の法」(儒教)は日本の拍子に合わないゆえに、そのような齟齬が生まれるのだと主張する。
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