「勝負の論理」と「仁義」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 05:32 UTC 版)
「天地の拍子」とならんで真葛独特の自然観として「勝負」の論理がある。 およそ天地の間に生まるる物の心のゆくかたちは、勝まけを争うなりとぞ思わるる。鳥けもの虫にいたるまでもかちまけをあらそわぬものなし。 これは、自然界を「闘争の場」とみなすものであり、当時支配的であった朱子学の自然観のような、自然界を静的で調和的なものとする考え方とはおおいに異なる。こうした自然観にもとづいて彼女は当時の教育方法を例に掲げながら人間の本性は勝負を争い合うものであるとし、「かりそめのたわむれ」も勝負を競う方が楽しく、競わなければ「いさみなし」であるとして、遊戯における実感によって持論を補強している。 「勝負を争う」本質が最も顕著にあらわれる博打は、公儀によって厳しく禁止されているが、真葛は、法によってそのような本性を抑圧することは必ずしも有効ではなく、むしろ、「法」が強圧的でありすぎるならば「勝負を争う」人間の本性それ自体によって覆されることさえあるとしている。ここにおいて、法は「網の袋」に、人間の本性は「黒がね」に例示され、「いつかは錆にそこねられて、網のやぶれんことのあるもやせん」としている。 このような観点から、真葛は、領主の「仁」とはたんに人民に慈悲をほどこすことではなく、「世の人のためによきわざを残」すこと、つまり、実際に人を救済しうる有効な施策を立案し、実行することであるとして徳治主義に疑問を呈する。また、「義」というものの心の状態を内省するならば、「胸にあつめて強くはる、俗にいうかんしゃくなり」と結論され、よい事に張るのを「義」といい、悪い事に張るのを「暴」といって、字のうえでは善悪の区別はあっても人体のなかにあっては同じ心のありようだと主張する。このような「仁義」の理解も、当時にあっては独自なものであった。 「天地の拍子」と「勝負の論理」を総合すると、為政者が社会と人間を正しく導くためには「勝まけを争う」人間の本性を見すえたうえで「天地の拍子」に合致した有効な方法を追求していかなくてはならない、ということになる。
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