「勝者の裁き」の主張例とは? わかりやすく解説

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「勝者の裁き」の主張例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 00:13 UTC 版)

「勝者の裁き」記事における「「勝者の裁き」の主張例」の解説

勝者の裁きは、古来からずっとあったと言われている。 古代有名な例としては、ペロポネソス戦争中、紀元前429-427年にかけてのプラタイア包囲戦英語版)がある。アテナイ忠実な同盟国であったプラタイアの町は、スパルタとその同盟国による長期にわたる包囲戦に耐えていたが、最終的に物資枯渇して救援望みもなかったため、スパルタ降伏した。彼らは、スパルタ人が「すべての者を公平に裁く」と約束し降伏した場合は「有罪の者だけが処罰されるべきである」と約束していたので、スパルタ人公正な裁判行なうものと信頼していた。しかし、プラタイア人の囚人たち裁判官前に連れてこられたとき、審理行なわれず、彼らは何の弁護もできなかった。スパルタ人囚人に、戦争中スパルタ人同盟国に何か貢献したかと尋ねただけで、囚人たち最終的に「いいえ」と答えるしかなかった。戦争の間プラタイア人がアテナイ側に付いてスパルタ戦ったこと、それはプラタイア合法宣言した政策による義務であったことは、関係者なら誰でも知っていた。プラタイア人が「いいえ」と答えると、次々処刑され、その数は200人以上に上ったトゥキディデスは、これは明らかに不公正な司法手続きであるとしている。 記録に残る「勝者の裁き」主張は、19世紀以降特に増えている。 アメリカ南北戦争北軍従軍した経験のあるジェームズ・マディソン・ペイジは、1908年著書『The True Story of Andersonville Prison』(アンダーソンビル刑務所実話副題は「ヘンリー・ヴィルツ少佐弁護」)において、勝者の裁き実例赤裸々かつ詳細に述べている。ペイジ南部連合軍捕虜としての数ヶ月間の体験語った後、ジョージア州アンダーソンビル (ジョージア州)(英語版近くのキャンプ・サムター(英語版捕虜収容所唯一の司令官であったヘンリー・ヴィルツ(英語版少佐投獄裁判詳述している。1864年2月から1865年4月まで、南軍は約45,000人の北軍捕虜をキャンプ・サムターに収容していたが、その間収容所劣悪な生活条件のために約13,000人の捕虜死亡した。ヴィルツは、勝利した北軍に「アンダーソンビルの悪魔」と呼ばれるようになり、アメリカ南北戦争中の行動により戦争犯罪有罪判決受けたわずか2人南軍人のひとりとなった。ヴィルツは戦争犯罪裁判英語版)で有罪判決を受け、1865年11月10日ワシントンD.C.公開処刑された。一部人々は、ヴィルツに対す罪状、キャンプ・サムターでの状況対す彼の個人責任、そして戦後の裁判公正さ疑問視している。1980年歴史家モーガン・D・ピープルズは、ヴィルツを「スケープゴート」と表現し、彼への有罪判決今でも論争の的となっている。 第二次世界大戦後戦争犯罪裁判についても、ペイジがヴィルツの裁判、有罪判決量刑処刑について述べたような現象問題があったと後に言われるようになったニュルンベルク裁判(およびダッハウ裁判英語版)などの関連裁判)は、枢軸国国民または協力者のみを起訴し連合軍による戦争犯罪起訴しなかった。このためソ連1939年9月17日ポーランド侵攻加わったにもかかわらずソ連からは誰ひとり起訴されないという矛盾生じた。つまり、ドイツ人被告たちドイツのポーランド侵攻について侵略戦争起こした罪で起訴されたが、ソ連ポーランド攻撃したにもかかわらずソ連からは誰も起訴されなかった。実際連合国裁判官4人のうち1人ソ連人で、判決を下す側にいた。同様に別の訴因として「侵略戦争共同謀議」があったが、ナチス共謀してポーランド侵略戦争仕掛けたソ連人たちは起訴されなかった。 さらに文明国軍隊は、自国軍法の下で何が許され何が許されないかについて詳細な指針自国軍隊文書で示すのが通常である。これらは、国際条約上の義務戦争慣習法を含む形で作成される例えば、オットー・スコルツェニー裁判では、彼に対す弁護一部が、1940年10月1日アメリカ合衆国旧陸軍省発行したアメリカ陸軍野戦マニュアル英語版)」と「アメリカ軍人ハンドブック」を根拠としていた。軍隊一員自国軍規違反した場合自国軍法会議裁きを受けるのが一般である。連合国軍軍人が自らの軍規破った場合例えダッハウの虐殺やビスカリの虐殺英語版)のように、裁判かけられる可能性があった。二次大戦では枢軸国多く無条件降伏したがこれは異例であり、国際法廷形成直接つながった通常国際戦争条件付き終結し戦犯容疑者処遇平和条約一部構成する。そして戦争犯罪の疑いがある場合捕虜ではない者は自国司法制度の下で裁かれることがほとんどである。第二次世界大戦末期フィンランドでは、連合国委員会英語版)が戦争犯罪平和に対する罪事例リスト作成し、これらの事件調査法的判断フィンランド法律基づいてフィンランド戦争責任裁判英語版)に委ねられた。しかし、フィンランド刑法には、政治結果生じた戦争について[個人が]責任を負うという概念がなかったため、これらの事件について事後法制定しなければならなかった。国際法廷枢軸国戦争犯罪容疑者限定することについては、連合国通常の国際法範囲内行動していた。 1990年10月ドイツ再統一では、ドイツ民主共和国東ドイツ)がドイツ連邦共和国西ドイツ)に吸収され現在の統一ドイツ形成された。統一後多く東ドイツ公務員が、西ドイツ裁判所直接後継である統一ドイツ法廷で罪に問われたが、これを勝者の裁き考える者もいた。東ドイツ国境警備隊多く下級隊員共和国逃亡英語版に関する罪で起訴された。東ドイツでは国外逃亡試みによって、ベルリンの壁東西ドイツ国境英語版)で300-400人の死者出た推定されている。国境警備隊員はTodesschützen(死の銃殺者)とも呼ばれており、停止警告を2回無視した逃亡者射殺せよの上官命令に従っただけだと主張したが、しばしば有罪判決受けた統一ドイツ裁判所は、東ドイツ国境法は、東ドイツ署名し批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約根本的に反しているため、法律ではなく不正義制度化したものにすぎず、隊員たちは上官に背くべきだった主張した

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